<世田谷物語>ー(9)大卒50周年の集い

 世田谷の自宅から駒沢公園へ午前のウオーキングをしながらヒロシは考え  た。[定年は通過点にすぎない]という前向きな姿勢は立派だ。

 だがそこから何処へ行くのか、その目標のはっきりしている人は少ないのではないか。「それは定年になってから考える」では遅い場合が多いのだ。

 いづれにせよ定年は節目であり、自分が過去のある時点で描いた自分の未来像と較べる良い機会になる筈だ。ヒロシが60歳の定年後の目標を意識したのは57歳の時であった。

 それまでは、退職金と年金を元にしてどう生計を立てるかという経済面のやり繰り算段ぐらいであった。その種のビジネス書は、「45歳から始める金持ち老後」などの入門書の類をあまた読んだが解答などない。

 インターネットで株式・投信・公債などの資産運用を始めたのもその頃だった。これらは当初上手くいっていたが、のちに2008年のリーマンショックで大幅に減損した。いづれにせよ資産運用はやりくりの手段であり人生の目標にはなり得ない。

 ヒロシの場合、運よく60歳の定年と同時に個人の有限会社が設立できた。役員は自分と妻の二人、社員ゼロのワンマンオフィスながら

銀座に事務所を開いた。それは現役時代の取引先の後押しのお蔭であった。

 それでも、有り余る時間を持て余し、OB会や同期会の幹事を引き受けた。大学同期の仲間とは読書会も始めた。週2ー3回のスポーツクラブと散歩で運動不足を補った。友人の勧めと指導で卓球の教室にも通い始めた。

 こうして定年後も世田谷の自宅から13年間通勤したが、14年目に会社の登記を抹消して税務署に廃業届を提出した。

 その直接の契機は台湾のパートナーの病死により取引が先細りになった事であり、相前後して銀座の事務所ビルが建て替えとなった事だ。

 自宅に撤去して通勤しなくなると、途端に日常の景色が激変した。

 その時、このままでは「定年呆け」になって終う、との強い危機感を覚えた。

 まだ73歳であった。

 まだ「先は長い」と思った。呆けるには若すぎる。

 いま一度人生100歳という登山なら7合目で立止まって、来し方を俯瞰し頂上を仰ぎ見る時であろうと自覚を改にした。

 視界が不良であれば晴れるまで待 てばよい。体力的に病んでいれば治療に専念すればよい。

 もし未だこの先に目指す「目標」が持てれば頑張り方を工夫せねばならない。

 そんな思いをしていたヒロシに名古屋の大村から連絡が入った。

「久し振りに同期の全員集合をやろう」という呼び掛けだった。ヒロシは、

「またかよ」とうんざりしながらも、いいタイミングかもな、と思い直してすぐに応諾した。

「来年は俺たち卆50周年だから、節目としては絶好かもな」と返信メールした。

 ヒロシはちょうど大学OB会の幹事として「卆50周年生」を総会に呼び込む企画をしていたからである。だがメールを発信してから、

「しまった、また世話役の仕事が増えるな」というもう一人の自分もいたが、まあいつもの事だとヒロシは自らを笑うしかなかった。

「俺は損な性分だな」と、世話役を引き受けてから思わんでもないが、いつも自分でやりたい気持ちの方が勝ってしまう。それが生甲斐の一つになっているのかも知れないと諦めるしかない。

 それにしても、いつも言い出しっぺは大村だが幹事をしたことはない。幹事と世話役とを仰せつかるのはヒロシであった。

 ヒロシは常々

「世話役はするが同期会の幹事は皆で持回りにしよう」と言って来ている。

 そこで今回はいつも言い出しっぺのくせに幹事をやっていない大村にやらせよう、と計を案じた。

「関西・関東の合同は・・・第一回が京都で還暦祝い、二回目が沖縄ツアー、三回・四回目が宝塚で五回目が六甲山荘。だから今回は中部地区がいいかな。何処かひなびた温泉宿でゆっくりしたいな。どうだろう」と、大村に幹事役を振ってみた。

 と、意外にも、というか覚悟の上で電話して来たのか、

「温泉か、いいね。それなら奥三河にいくらでもあるから当たってみるよ」

 と請け負ってきた。

 ヒロシは瓢箪に駒であるが、もう後には引けなくなって世話役を仰せつかる破目になった。

 時期はあらかじめ、常連たちの都合を打診した末、若葉の5月として大村が温泉宿(奥三河湯谷温泉 「湯の風HAZU」)の手配をした。

 集合状態の首尾は上々で、東西併せて14名が豊橋に集合し、湯谷温泉へ向かった。

  

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仲良し2人組が別シートに

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    豊橋からJR飯田線に乗り換え奥三河湯谷温泉駅
         to  be  continued

 



 

 

 






久保義昭氏を偲ぶ会に寄せて

<久保義昭氏の追悼写真>

2023年3月16日の偲ぶ会に寄せて

大阪外国語大学イスパニア語学科同期生一同(本城清 記)

2023年2月4日に逝去された我らが大阪外国語大学イスパニア語学科同期卒の

久保 義昭様との懐かしい同期会、読書会の模様を写真にて偲びます。

名古屋の料亭「よし川」

1990年代には毎年のように名古屋に同期仲間が集まった。久保氏は出張先のシンガポールから名古屋に直接帰国したこともあり、楽しい会であった。幹事の大村氏、藤永氏、竹山氏、そして2023年2月久保氏が鬼籍に入る。

 

2009年JR宝塚駅頭に集合→滝氏の幹事で「東洋紡の宝塚研修寮」で全国大会

東洋紡の宝塚研修寮の川べりでバーべキュウの宴会

画面左端が沖縄から参加の石原教授(沖縄国際大学)、浴衣着流しの久保氏以下全国より卒後最多の20名が集合。1泊の親睦会の故か残念ながら女性の参加なく男子会。

 

2012年六甲山サミット、楠氏が幹事の「関西大学研修寮」

同期生同士のカップル樋口氏(有三さん、浩子さん)ご夫妻の参加を得て紅一点の全国大会~沖縄からは平和学の石原教授も駆けつけ大盛会となる。

 

関西大学の六甲山荘の宴会風景ー1

 

関西大学の六甲山荘の宴会風景ー2

2007年に始まった同期仲間の月例「読書会」の忘年会

この年の忘年会は、久保氏が年間所得1億円超を祝す会。銀座の寿司「久兵衛」の個室を借切り読書会メンバーによる祝宴5人会

 

2013年全国から同期仲間の集合、豊橋駅集合~奥三河温泉郷へ(幹事大村氏の右に久保氏)

三河ー2温泉宿の宴会集合写真

 

三河ー3、金剛寺長篠城~棚田などの観光

 

関東の同期会、左端が故澤田氏(国土交通省入省の超エリート官僚)目黒のスペイン料亭に参集

 

関東イスパニア語会、久保氏の右、伊藤忠商事の松永氏、大阪外大元学長(イスパニア語名誉教授)の山田氏

 

2016年関東の同期会@新宿「住友倶楽部」(幹事織辺さん)女性2名、名古屋から神谷さん(旧姓箕浦さん)と樋口浩子さん(旧姓井上さん)の参加を得て盛会。

 

新宿の住友倶楽部ー2,宴会風景

 

2019年関東イスパニア語会の集合写真(コロナ禍発生前の最新の会)

 

2019年関東イスパニア語会で咲耶会(大阪外大同窓会)の東京支部長として挨拶された
久保氏、以降はコロナ疫病の影響下同会は中断中。

以上

編集者: 大阪外大イスパニア語学科同期を代表して(本城清)

<世田谷物語>ー(10)落第じゃない留年だ!!

 祝卒業50周年のつづき:

「湯の風同期会」の御案内「リマインダー」最終案内メール。

 

 東西参加者の集合場所である豊橋駅に着くと、刈谷市にお住いの神谷(旧姓箕浦)さんのお出迎え、というサプライズがあり。卒後はご主人ともども教職を全うされた由にてお互いに旧交を懐かしむ。

 と言っても何せ50年ぶりなので、名前と顔を確かめている間に乗り換えの列車が到着し時間切れ。次回での再会を期した。お土産まで頂き宿で参加者全員で頂く。

(後日談ながら、神谷(旧姓箕浦)さんとは2年後の新宿住友ビルの同期会にて再会を果す)

集合日時:2016年5月23日(月)13:20JR豊橋駅集合~24日(火)奥三河の貸切バス観光
宿泊場所:奥三河 湯谷温泉 「湯の風HAZU」〒441-1605 愛知県新城市能登瀬上谷平4-1
豊橋駅よりJR飯田線1時間10分→湯谷温泉駅http://www.hazu.co.jp/hazu/

観光:旅館のマイクロバスにて、鳳来寺山, 四谷の千枚田長篠城址、その他名所旧跡(昼食は各自負担)
会費(概算見積り):¥16,000~17,000(1泊2食・宴会費込み)+ ¥1,000~2,000(バス観光費)
湯谷温泉駅迄の交通費:大阪・東京より概算往復¥20,000(各自負担)

4年ぶりの全国大会になりますので参加各位との再会を楽しみにしております。

「東京発の新幹線ご案内」
こだま649号東京駅発10:56豊橋駅着13:16に乗りましょう。
本城は自由席1号車に並んで乗ります。品川駅、新横浜駅から乗られる方の席を確保しますのでお申し出下さい。

他の便や交通手段で豊橋駅へ向かわれる方もその旨お知らせ下さい。
飯田線豊橋発13:42発に乗り遅れた場合、次の14:42発岡谷行きで湯谷温泉駅15:48着を利用)

 <参加者: 敬称略>

関西:奥田、楠、鞠山、三好、田坂、下市(6名)

中部:大村(1名)

関東:樋口、木下、久保、西沢 、柴田季藏、深井、ヒロシ(7名)

総計:14名

 もし何らかの事情で不参加又はその可能性のある方は、折り返しその旨お知らせ下さい。

(3日前よりホテル予約のキャンセル料が発生いたしますのでご留意ください)

 以上
世話役:(関西地区)下市(中部地区)大村(関東地区)ヒロシ

 

 当日の奥三河 湯谷温泉 「湯の風HAZU」

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三河温泉の渓谷にて、西沢氏・三好氏

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三河温泉の渓谷にて、三好氏・ヒロシ

 

 ひと風呂浴びて部屋で幹事の大村氏が持ち込んだ缶ビールで乾杯の後~~

宴会場へ

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参加者全員集合の{男子同期会)

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 宴会後は幹事大村氏主催の「カラオケ組」とサロンの茶話会組に別れるも全員年齢相応の疲れもあり早々に就寝。

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ガイド付きの貸し切りバスにて奥三河の観光へ

鳳来寺山のハイキングコース

 

 

 

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 鳳来寺の塔に到着

 

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  鳳来寺の塔にて記念写真

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鳳来寺の石段を降り来る同輩の雄姿

 

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四谷の千枚田(という名前にはちょっと数が不足も景観)

棚田を見学~大村氏はせせらぎに見つけた「オタマジャクシ(蝌蚪)」をビニール袋に掬い取り奥様へのお土産に~~~はてさて奥様がお喜びなったというニュースはついぞ未だに聞けぬまま。

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大学卒50年は「高齢者」の 仲間入り。千枚田の登坂は休んで「ナンマイダ」

 観光バスは最終のスポット長篠城址へ

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歴史に名高い長篠の戦い。~夏草や強者どもの夢のあと~

城址近くのお土産屋さんで名物「五平餅」を頂く。八丁味噌の香りが印象的。

 ここから豊橋に戻り本会は「お開き」!!!!

 参加者のみなみなまだまだ元気だったが~~~幹事の大村氏はその2年後2018年に持病となった肺の病再発で逝去。 

 

 大村さん有難うございました。君の卒年が1年遅れたのは「落第じゃなく自ら選んだ留年」だった。我々同期生はそれを十分知っている。

 だからこそ、君の同期生に対する特別な思いに感じ入った同輩は、宴会の酒席で君に対する野次を飛ばし、「落第生!!」と敢えて叫んだのである。

 同期会への君の敷居を低くして同輩として付き合いたいという「友愛の叫び」であったことはその場の雰囲気で皆が共有できた。

 それに対して君は即座に「落第じゃない留年だ」と大声で返した。~~~これで万座は大爆笑の渦。

 

 その瞬間から50年の年月はすっ飛び一気に→学生時代の雰囲気に戻った。そんな素晴らしい場にいた幸運を皆が共有できたのであった。

 そして翌日は貸し切りバスで「修学旅行」の気分に浸った。

 だからだから~~もっと長生きして毎年、「同期会をやれ」と号令して欲しかった。

  君の志と同期への思いは必ず受け継がれる事と思う。いつまでも・・・

 

<世田谷物語>ー(8)卓球の神髄 Oh、What a miserable day!

   時節は6月末の中野区立体育館の卓球場。

 

 閉め切った卓球場に冷房はなく、古びた扇風機が天井に向かって廻っていた。

 蒸し暑い!! 此処に100人近くも集まるのか???

 ~~その熱気を想像してボクは早くも来たことを後悔し始めた。

 

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 ボクは第2試合に勝ててほっとしたが、チームとしては苦戦らしい。

 肩の力が抜けきれず、第3、4試合とボクのペアーが負けて、予選突破は微妙になり、同率決戦にもつれ込んだ。


 スコアー<2-4>で2点ダウン。セットオールで迎えた第3ゲーム。チームの予選通過がこのゲームの勝敗で決まる。ボクががサーブの番だ。

――ここはどうしても落とす訳には行かない――

 ボクの頭脳は襞が張詰めて硬直する。心拍数は上がるが脳波が働いてくれない。こんな時は使い慣れたサーブがよい。横回転のロングサーブを普段通り繰り出した積りだったが、掌に残った感触はちょっと強かった。ラケットに余分な力が入ったようだ。

――ちょっと大きいかな・・・でもラバースピンで何とかギリギリ台上に落ちてくれ――、と祈った。

 ボールのコースは思い通り相手の右脇腹へ・・・・、そしてわずかに「カシャッツ」というエッジ音を残して相手のウエア―を直撃した。ラケットにかすりもしないノータッチエース。確かにそう見えたのでボクは軽く左手を挙げた。

 

 エッジボールに対する詫びのマナーだ。その瞬間レシーブのミセスの眉が八の字に歪んだ。ショートサーブに備え前陣に構えていた彼女は、後退するだけでラケットに当てる体勢になかった。

前陣の構えを見破られ、「シマッタ」という表情だった。そこまで見届けたボクが次のサーブに移る前にスコアー板に目を向けてから、その場面は暗転した。得点が相手に入っていてスコアーが「2-5」になっていたからだ。

 

 3点ダウン。ええっという思いでボクがサーブの構えを外すのと、右脇から味方ペアーの女子がそれと気付いて「3-4、3-4」と審判に向かって、「エッジにしっかり入ったよ!」と叫ぶのが同時だった。

 ボクは卓球台の相手側エッジを指さすばかり。アッピールが声になって出て来ない。緊張した時の癖で喉の奥が詰まったのだ。こういう時に当事者が「入った、入った」と声高に騒ぎ立てると返って嘘っぽくなる。そんな知恵も秘かに働いて審判に目線を向けて無言の圧力をかけた。

 

 同点決勝戦だったから予選リーグの他の試合はない。館内で休息していた選手も異変を知り集まって来た。その中から相手女子への声援も飛んだ。

その応援に応えるかのように、彼女のゆがんだ眉が元に戻った。得点板がまだ<2-5>なのを確認して、口を尖らせて「出た、出たよ!」と叫び返す。

背の高い相手のペアー男子も後方から、「エッジに掛かってない!」と審判に指さして主張する。

 

 スコアー板を「3-4」に直すべきか逡巡していた審判は困った。よく見ていなかったので確信が持てない、という表情に見て取れた。

自分のミスジャジの可能性が高い。ところがあろうことか敵側に得点を入れてしまった。味方には悪いが判定を覆すと<アンフェア->になってしまう。その困惑顔を観て取った相手ペアーの男子が、

「こうなれば審判次第、どっちなんだ!」と突っ込みを入れ、さらに畳み掛けて「審判は見てなかったんじゃないか?」と恫喝した。

 

 ローカルな親善試合であるから審判と言っても敵味方チームが交互に担当する<記録係>である。審判としてはできれば当事者間で決めてくれ、というのが本音のところ。 

 ボールは台上でバウンドしていない。エッジをかすめた音は、一番近くにいる当事者が一番よく判る。通常の場合なら彼女は自主的に「入った」事を認めたであろう。

 だが団体戦の責任が掛かった試合では、興奮状態にあるので自分に有利に<聞こえる>。

審判は自分のミスジャッジのようだ、と口をゆがめながらスコアー板を元の<2-4>に戻した。ノースコアーのやり直しだ。

「今のがやり直し?」と不満そうなボクの女子ペアーに、審判は右手を上げて「ノースコアー」、とぽつりと言って目を伏せてしまった。

 それは<スマンスマン、実はしっかり見てなかったんだ>という表情だった。審判がチームメートだけにそれ以上は責められなかった。

 ボクはアッピールの間も冷静さを保っていた。そして2年前に経験したチーム成績最下位という屈辱を想い出していた。

 

 たかだか卓球教室が主催する<ローカルな親善試合>だ。男女の混成でダブルス試合をチーム単位で争う団体戦。チーム編成は当日の抽選。教室では練習相手となる顔見知りが敵味方に分かれる。

 2年前初めて参加した時、ヒロシは「試合が練習とは別物」なることを思い知った。予選に勝ち残れずに<敗退>すればそこでその日の試合は終る。

 楽しかるべき貴重な休日である。参加者の皆が、参加するからには「せめて予選は勝ち上がりたい」という一念で結束する。

 チームとしての連帯感がごく自然に生れる所以だ。敗退すれば、決勝戦の審判を務めるか、応援団に加わるしかない。「1日を卓球三昧で」という思惑が頓挫する。休日を無駄にした思いで悔しい。

 

 普段の教室ではお互いに相手を立て、高め合っている仲間でも、敵味方のチームに編成されると変わる。いや、普段の付き合いが猫を被った社交でしかないのだ。

 趣味の世界でも試合は人を瀬戸際に立たせ、魔者に変える。人間性を封じ込め闘争本能を炙り出す。普段は世間という殻に抑えられた本能が刺激され歯をむき出す。

 教室の練習試合の積りで参加したボクは蚊帳の外。明らかに後れを取っていた。自分がそんな耐性も経験もないビギナーなることを思い知らされる。

 悔しい思いを乗り越え、弱い己に打克つことが、スポーツとしての卓球の「神髄」なのであろう。

 

 あの時は初参加ゆえ余分に精神が高揚していた。結果として筋肉が硬直する事は避けられない。

 只々指示された順番に試合に出て懸命にボールを追っかけた。そんな姿を見れば初心者とすぐ分かるので、何処からも「審判」の依頼は来ない。

 初の挑戦はチームは最下位で予選敗退。ヒロシが出場した試合の成績も1勝5敗と惨めであった。

 

そんな2年前の想いとは無関係に試合は進行していた。

「思い切って行こう!!」という甲高い女子パートナーの掛け声に、ボクは我に返って相手を睨みつけた。

 惜しくも「ノースコアー」になったがボクは冷静に、やり直しも同じサーブと決めていた。横回転のロングは得意のサーブで得点率も高かった。ところが2度目は相手に見事に打ち返されリターンエースとなった。

 それでもヒロシは、「ドンマイドンマイ!」を連発するベテラン女子に助けられ気持ちを立直した。それから暫くして奇跡が起こったかのような連続得点が始まった。

――2年前の屈辱を晴らしたい――

 という一念で強気、強気に攻めまくった。ゾーンと言われる無我の境地になれたようだ。ペアリングの息もあって来てゲームに集中できた。

 すると練習時の「ボールに向かっていく」感触を取り戻して、必殺パンチも炸裂しだした。これを契機にボクのフォアー・スマッシュ、バックボレーが決まりだし、一息ついた時には「10-8」の2点アップと逆転していた。ここでボクのサーブ。

 

――息が上っていたが整えて1点取ればよい――

 チームメートの応援するボルテージは最高潮に達し、予選ゲームを終えた他チームも観戦に加わりだした。

 ボク達のゲームが予選の最終戦となったのだ。この結果により決勝リーグの組合せが決まる。中野区体育館に集まった参加選手全員が1つのゲームを注視した。

 応援に廻ったチーム仲間が「ゆっくりゆっくり」というのが聞こえた。その声にボクは逆に緊張した。これがマッチポイントでありチームの予選突破ポイントになると気付いたからだ。これで勝ちを意識した。

 

――どうしても勝ちたい――と固まるボクに女子ペアーが、

「ど真ん中に入れて!」と叫ぶのも聞こえた。

 ボクのバックサーブは構える相手のど真ん中に落ちた。クロス側に打ったはずが、

僅かに中央ラインアウトか・・・。

 とその瞬間に相手女子は、「アウト」と叫んだ。彼女は意表を突かれリターンできなかった。これも当事者間が一番よく判る微妙なジャッジだ。

 ボクにはオンラインに見えたが潔く相手のジャッジを認めた。まだそれでも「10-9」と1点アップ。あと1点で勝てると楽観していた。

 ところがこのサーブが明暗を分け、ジュースを繰り返した末に敗退した。これはただの敗戦ではなく、予選敗退を意味する。

 

 ボクは最後のゲームは自分なりに精一杯のプレーができた。

 だが5試合に出場して1勝4敗とチームの足を引っ張っていたので言訳がつかない。

予選敗退の責任を一身に感じた。

 3試合目にペアーを組んだ若者からは罵声を浴びせられた。第一セットを取られると一球ごとに横から注意された。

 

 試合中にチームメートに怒鳴られたのはショックだった。本チャンの彼が発する言葉は熾烈で、ボクをますます萎縮させた。1球ごとに彼が発する指示は、聞き慣れない仲間用語のように聞こえた。

「サーブしたら早くどけ、そこに居たら危ねえだろう」

「後ろでレシーブミスるなら前で構たらどうなんだ、えっ」

「チャンスボールも空振りすんかよ」

「返すボールに回転掛けろ!」

 最後には決まって、「テンポ合わねえなあ~~」と睨まれた。

 

 運動部の練習で、先輩が後輩に教え込むやり方を彷彿とさせた。

 先輩の「愛の鞭」という鍛え方だ。

 後輩はこれを「ありがとうございました」と頭を下げて感謝する場面である。

 だが試合中にいっぺんにあれこれ言われても、本チャンでないボクに出来るはずもなかった。

 その若者に悪気はなく真っ直ぐに純粋なだけだ。参加する以上は高齢者という年齢に甘えられない。スポーツの試合とは、学歴やキャリアーという鎧兜は何の価値もない。

「人格破壊」という言葉が思い浮んだが慰めにもならない。

 着の身着のまま、<裸でリングに上ったボクサー>なのである。

倒すか倒されるか、勝つか負けるかしかない。

 チームメートはそんな惨めな思いのボクに掛ける言葉もなかった。

 ボクはその場に居た堪れなくなって、そっと皆から離れ目線をずらした。

それをきっかけにチームは自然消滅しそれぞれ所属する地域クラブに戻った。

 どこのクラブにも所属していないボクには行く場所がない。

 群れから外れて一人ぼっちになった。

 Oh、What a miserable day! 思わず口の中でそう叫んだ。

 JR中野駅までの距離がやたら長く感じた。 

        ――  to   be  continued     ――

 

 

 

 

 

<世田谷物語>-(7)Nostalgic town, 神保町

    学生時代に卒論のネタ本を探しに訪れた古本屋の街並は今も変りない。

    司馬遼太郎が新作に取り掛かると・・・・トラック単位で

   関連の書籍が神保町から消える~~、というのは有名な話。

       

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    古本屋の街並み

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       その頃の同期仲間と「読書会」で集うのが、学士会館

          そこは、同窓のOB会の会場でもある。

    2年前には、そのOB会で「卒50周年生」のお祝いの紅白饅頭

   貰った。

 

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    学士会館の正面玄関

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       TVドラマ「ハゲタカ」の撮影に使われた赤絨毯の廊下

 

    神保町は、訪れる人全てに青春を蘇らせてくれるNostalgic town

   であると同時に、今も学生街として若者のデートコースでもある。

   

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    表通りを一筋入ると、すずらん通り」は食堂街になり、

   学生・文人、そしてサラリーマンの胃袋を楽しませてくれる

   B級グルメが軒並みとなる。

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    駿河台下側には、江戸川乱歩が愛したという文人たちのたまり場

   天婦羅 はちまきが・・・・・

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    そして、旧満州の店を再現したという、スヰートポーズは、

   餃子と包子の専門店で御飯と味噌汁が付いた定食が流行っている。

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       その右隣りはレストラン「ろしあ亭

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     その向かい側には、いつ来ても列に並んで待つということで、

    有名なキッチン「南海」という洋食屋さん。

     学生のみならずサラリーマンの胃袋を満たしてくれる。

    カツカレー、生姜焼き、揚げ物、フライ・・・と盛沢山。

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   そして、神保町の交差点側の白山通に抜けて左折2軒目に

  見つけた鮮魚店が只者ではなかった。 

   鮮魚の陳列棚の前には「1階立ち呑み 営業中15:00~23:30

  という張り紙が・・・

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    店の名前は「サケクジラ鮮魚屋」・・・・仕入れ販売の終わった夕刻から

   店の鮮魚を捌いて調理し、「立ち呑み」をさせてくれる。

    名前の由来は・・・魚ならサケでも、クジラでも、「何でも屋」

   という意味と聞く。

 

    午後5時以降は~~2階で「座って呑める・・・」と言うので早速、

   読書会のあとに仲間と連れ立って恐る恐る訪れた。

    この年齢になると・・・・ネットに紹介の無い新しい店は冒険なのである。

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     店の佇まいは鉄骨の枠に階段を付けた掘立小屋。

   2階に調理場があり~3階も座って呑めるテーブルと、

  プラスチックの小椅子があるという。   

   2階の座席はこんな様子・・・・・

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    何とも飾り気のないオープン・スペースは、

   それなりに地中海の島の港町・・・・といった雰囲気であろうか?

 

    食べた料理は・・・刺身3点盛り(オリーブオイルと塩)、岩牡蠣

   サザエの壺焼き(ガーリック)、ホッキ貝のアヒージョ、ホタテ貝の煮焼き、

   鮪の目玉頬肉 、メヒカリのフリト・・・・・

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    調理はイタリアンの味付けが中心で、フレンチの料理もあり、

     中々の満足度である。

   何と言っても素材の鮮度が直営の強みであろうか。

 

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   飲み物は~~生ビール、焼酎、日本酒、ワイン、と試したが、

   やはり・・・和風ではないので「ワイン」が一番合いそうである。

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   高齢者としては・・・・大冒険のイタリアン風鮮魚居酒屋

  の試食会が、まずまずの出来栄えで

  「青春プレイバック」した一時でありました。

   

   まだまだ・・・・・神保町界隈の懐は深そうで、

  読書会やOB会のあとの息抜き・・・わいわいがやがや・・・

  と二次会で冒険が楽しめそうである。 

           ~~to    be   continued~~

<世田谷物語>-(6)Let's start [卓球ライフ]

  8月27日の午後9時過ぎスマホに連絡があり、ゲリラ豪雨の被害を受け、

 暫く休業になる、と言う。 「記録的短時間降雨」に襲われたのだ。

  その翌朝、卓球場から臨時休業のメールを受取った。

 

    メールには、 「~~店舗は1階が浸水、地下1階が水没したため、
    自由が丘本店は休業とさせていただきます。~~」 とある。  

   メールの送信者は、卓球場(株)タクティブ 自由が丘本店である。

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   そして、下欄の写真がメールに添付された「浸水・水没」の画像である。

        地下1階に預けたシューズ・ラケットは水没で全滅!!と宣告された。

  (勿論~~後日補償~~)

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    翌日から予約を他店へ振替える担当コーチの連絡が始まった。

  TACTIVEがは創業して4年目~~自由が丘本店を1号店として、   

   都内5店舗に、川崎、横浜、千葉、函館、~~と、9店舗出来た。

   http://www.tactive.co.jp/

 

   個人レッスンの担当コーチと共に川崎店にシフトした。 

  川崎は少し遠くなるが、それでも便利になったものである。

 

   常設の卓球教室や個人レッスンをプロのコーチから受ける場は少ない。

   高齢のビギナーが一念発起しても、好きな時に好きなだけ練習~~

  という訳にはいかないのが現実である。

 

   卓球を始めたのは10年前。同期の友人の奨めによる。

  半年ほどは月1~2回町田市の体育館で教えてくれたが、本ちゃんである彼は

  所属クラブのコーチもすれば試合にも出る。

 

   そこで彼がネット検索で探し出して、予約の申し込みまでやってくれたのが、

  ニッタクの卓球教室であった。

   http://www.nittaku.com/community/list.php?page=1&category=1

      

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   教室のレッスンは体育館か倉庫の片隅だろう、と高をくくっていたが、

  案内には秋葉原の本社ビルとある。

 

   この扉の前に立った時は、正直足がすくみ怖じ気づいた。

  地下の卓球場は照明ライトのスポットに照らされたスタジオであった。 

   通常は卓球製品の陳列・商談、撮影、プロ選手たちの練習場である。

 

   そして、高齢者ビギナーをコーチして頂くのは、テレビの解説でお馴染の

  鄭 慧萍(ていけいひょう)先生。

   2008年は北京オリンピックの時で、代表選手福原愛選手のコーチであった。

   

   レッスンは判らない言葉、出来ない試技ばかりで散々であった。

  まるで異郷の伏魔殿に紛れ込んだ小羊である。

   此処から‥‥卓球ライフの行脚と苦悩が始まった。

 

   先ずは、教室のメンバーに迷惑を掛けない為にはどうすればよいか?

  が最大の問題となった。

   銀座の事務所から週日の午後通える教室をネット検索し、候補地を

  見学して、

       足立区亀有の「親愛ムーサ」を選んだ

       http://mousa.takkyu.ne.jp/about/sisetu.php

 

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    此処で毎週1時間半、ご高齢のコーチの指導を受けた。

   練習の内容は「多球打ち」といって、コーチの繰出すボールをひたすら

   相手の台に打ち返す。

    フォアー~~バック、1分間に50-60球を7~8回。 

    これが終ると、生徒同士でラリーをする・・・・時には、オーナーの

   多田ご夫妻の手ほどきも・・・・

    

    次なるステップとして、卓球界のレジェンド荻村伊智朗設立の会員制クラブ

   「ITS三鷹」に毎週通った。

      https://www.its-mitaka.co.jp/   

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   初級・中級コースの教室で、織部コーチ(荻村代表の後継者)、

  呂コーチ、馬場コーチ(ARP所属)、そして・・・・・

  元オリンピック日本代表の遊澤コーチ

 

   これと並行して・・・・中野区の卓球場セナタク」で教室と

  個人レッスンを受けた。 http://www.senataku.com/couase.html

   オーナーの瀬名コーチ(創立時は都立家政駅の住宅街)、

  福場コーチ、大内コーチ。

 

   同じ頃、池袋コミュニティカレッジの「卓球教室」にも行った。

  教師は元世界女王(全日本選手権者)山中教子さん、ARP理論創始者

  である。http://arp-theory.com/arptheory_commentary/

   

   高齢者は「身体で覚える」スポーツの鍛錬に耐える体力がない

  何とか理論で補おうとすればするほど、迷いに迷う。 

   10年1日の如し・・・・随分と遠回りしたものである。

  多分同じところを何度も周回していたのであろう。

   日本には「流派が多すぎる」のではなかろうか。

   

   その迷える小羊に光明を与えた救世主は、元中国代表チームという経歴の

  二人のコーチであった。   

   10年間の我等が教師、ニッタク教室の「鄭先生」、

  そして鄭先生(元中国代表)の1世代後輩の「符倍コーチ」。 

 

    符倍コーチには1年前からTACTIVEで個人レッスンを受けて来た。

  二人の指導法には世代を超えた骨太の共通点があり、

   その徹底した合理性には一点の曇りもない。

  そのお蔭で枝葉末節の苦悩は払拭した。

 

   暗中模索のMy卓球ライフは「継続は力なり」を確信させてくれ、

  何の迷いもなく卓球に打込めることは有難い事である。

 
      ニッタクの公式H/Pに照会される鄭先生の輝かしい戦歴
   憶え切れない程多い。(下欄参照)
    またニッタクとのコラボ事業である、
   ミニ講習会付きの「ジャスミンカップ卓球大会」を開催して   
    日本に於ける卓球の普及に多大の貢献をされている。
 
    更に下欄のプロフィールからその多才ぶりが窺える。                  
                       ~~to    be continued ~~
 
  鄭 慧萍(ていけいひょう)先生プロフィール
公益財団法人日本体育協会公認スポーツ指導員卓球コーチ 。
【主な経歴】

中国代表チームで活躍した後、来日。
全日本社会人卓球選手権大会 女子シングルス優勝、女子ダブルス優勝。

全日本卓球選手権大会 2冠 女子ダブルス、混合ダブルス優勝。


福原愛選手元コーチ(アテネ五輪予選、北京五輪、世界選手権横浜大会)として活躍。

大正大学卓球部コーチ インカレ優勝、関東学生リーグ一部優勝、全日本選手権女子シングルス準優勝。


その他(テレビ出演、雑誌連載など)実績多数。

NHKスポーツ大陸
北京テレビ・NHK合作『アジアクロスロード』
フジテレビ『アテネ五輪開幕式特別番組』『スーパーニュース』『知りたがり』
TBSテレビ『ニュース23クロス』
テレビ朝日あさナビ』   
TBSラジオ生島ヒロシのおはよう一直線』
NACK5『JO-SPO』 

埼玉県多文化共生推進委員会委員。

中国語講師(コニシ株式会社 等)など多彩な方面で活躍中。

◆TTC浦和 卓球教室

◆ニッタク本社・卓球教室