(1)奈落の淵 京都府立医大の夜勤と父の最期
ヒロシに中学3年の夏の出来事がフラッシュバックした。野球部の主将として敗退した時の記憶だった。あの時は父親との死別と重なって辛い想いをした。父親の命日が7月6日で試合が15日。初七日の法要を終えると直ぐにチームに復帰した。そして最後の公式戦であるトーナメントの1回戦で敗れた。父親を亡くした時のショックで試合の事はまるで記憶していない。
ヒロシは父親を看取った瞬間、
――自分は天涯孤独になった――、という寂寥感に襲われた。思春期を迎えて人生これから、という時に支柱を失ったダメージは大きかった。精神的にも経済的にも。父親という世間との隔壁を突然外されたからだ。
――これは試練だ、負けてたまるか――と身体中の全神経を張り詰めた。大人の世界には根深いものがある、と予知していたからだ。
父親は昼食中にヒロシの目の前で、いきなり目を剥いて仰向けにひっくり返った。駄々っ子がするように両足を上げて全身を痙攣させた。何が起こったのか見当もつかなかった。母親は本能的にその上に覆い被さって叫んでいた。
「お父さんどうしたんですか、大丈夫ですか」
駆けつけた医者の見立ては<脳溢血>。その後も小さな発作は起こったが間隔が延びてゆく。静かな寝息に変わった頃合いを見計らって病院へ運ばれた。治療する間もなく病院で4日間昏睡して息絶えた。
その間1度だけ、それもほんの20-30秒意識が戻った。身体はピクリともせず、目だけで家族の顔をぐるりと見廻した。病室のベッドに居る状況を察知したのかにやりと左頬が動いたように思えた、照れたときの父親の仕種であった。
それと察知した母親が期待感を込めて静かに、
「お父さんわかりますか」と耳元へ顔を寄せて囁くように言っても反応は無い。父親は、あれっという表情で顔を上げた途端にまた発作が起きた。発作はそれから一時止まっても断続的に頻発した。
ヒロシは何度も夜間に父親の発作を看護士の詰め所に通報をした。夜間なのに詰め所はいつも看護士の談笑で賑わっていた。とても病院とは思えぬ明るいスポットだった。4日目の深夜に看護士詰め所に通報をした時、
――発作です00号室です――、と叫んでもその談笑は途切れなかった。父親の一大事を声高に訴えるヒロシは<狼少年>扱いになっていた。そして誰が病室へ行くかが決まるのを、頭を下げて待った。いつもの事である。
だがその日その瞬間、ヒロシに<人間不信>が芽生えた。ナイチンゲールと白衣の天使が脳味噌から吹っ飛んだ。彼女たちも自分と同じ人間なのだ。
――そうか、大人は子供に嘘の世界を見せていたのだ――、とヒロシは確信した。実社会は教科書とは別世界だ。
――子供には大人たちに都合の良い事を教えている――、
と悟った。それは大人が、
――自分達大人の世界を楽しむためだ――
子供は大人によって作られた<第三>の世界で育てられている。大人は油断ならないぞ、と心で構えた。同時に、
――大人に負けてたまるか――、とも思った。でなければ自分の人生が惨めになる。
父親は一度意識が戻ってきょとんとし、にたっと笑った後、頻発した発作が止んで息絶えた。
「おとうさんおとうさん聞こえますか・・・・」と今度は耳元で声高に叫ぶ母親に対して何の反応もなかった。ヒロシは看護士詰め所の頼りなさにあきれた。そしてそんな詰め所に、発作のつど急を知らせに走るしかなかった自分も不甲斐無いと思った。無駄な事だったのか。あれもこれも、医師はお見通しだったのだ。ならばなぜそうと担当医は言ってくれなかったのか。
駆けつけた当直の<医師>によって父親の死亡を宣告されたのは、その15-20分後だった。それは死亡時刻を記録するための手続きだった。入院中は何の検査も治療も受けていない。交替で24時間付き添った家族の疲労はピークに達していた。自宅で留守番役の長姉は死に目に会えなかった。
母親は事務的な手続きに追われていた。家族揃って泣くひまも与えられない理不尽なあつかいにヒロシは憤りをおぼえた。親父も病院も何をしているのだ、冗談じゃない、とても受入れられるものではない。
――親父どうしてくれるんだ、俺を残して――、と心で叫んだ。自分は末っ子ながら長男である。二人の姉たちとは立場が違う。
――これからは自分が家業の責を担って世間の荒波に乗り出すことになる――、という思いだった。涙は一滴もこぼれてはこなかった。
15歳のヒロシは自分なりに身構えた。親族の、取引先の誰がどういう態度をしてくるか。どういう試練が自分に待ち受けているのか。それに負けない為には如何にすべきか。個人商店の当主が死ねばその家族を含めた環境が激変する。後継者は誰だ、息子は何歳になる、という世間の好奇に晒されている自分を感じていた。
そんな覚悟にもかかわらず現実は想像をはるかに超えるものであった。葬儀の翌日、さっそく自宅の2階で債権者会議が開かれた。発行済み手形の処理が猶予の無い先決問題だ。銀行渡りで市場に廻った分は知人・友人・親戚から借金してでも落とさねばならない。まだ債権者の手の内にある手形は銀行に廻さないよう願い出た。母と保証人の叔父とが、跡取り息子のヒロシを真ん中に据えて、何度も頭を下げて頼んだ。債権者は沈鬱な面持ちであった。それぞれ資金繰りの算段に思いを巡らせているようだった。この場は同業者である叔父の信用力のお蔭で乗り切った。京都の呉服商仲間である「室町筋」は先祖代々の信用で繋がっていた。古くは室町時代の応仁の乱以来の付き合いもある。その信用で3年間の延べ払いと合議がまとまり、同業者の叔父が保証人に立った。
家業は廃業を免れたが、ヒロシの立場は「呉服屋のぼんぼん」から「債務者の嫡男」へと激変した。そこまでは朧げながら想定できたが、現実は加虐的に身辺に押し寄せた。法的償いに伴った社会通念上の<人格破壊>という「仕置き」が待っていた。拭い去るのに3年掛かった。青春真っ只中の3年は長く感じた。
ヒロシが知っている世界は華やかな「表の世界」に過ぎなかった。それは氷山に例えれば海面上の「一角」だ。それがいきなり、海面下に沈む氷山の下層部に突き落とされた。そこで見える世界は、海面上よりもはるかに大きかった。
機織生産者・染色業者は家内工業。延払いによる損害は大きかったに違いない。ヒロシに対して愛嬌を振りまいていた仕入先の主人・家族が<手の平>を返した。染色・洗い直し等を頼んでも忙しい時には後回しになった。忙しい季節は此方は稼ぎ時なだけにこの仕打ちは堪えた。
景気が悪くなると毎月末延滞金を払いに行くヒロシに辛く当たる業者が増えた。母親はそれを予知して、業者への支払いには店員ではなくヒロシを使いに出した。父親に代わって商店を経営する母親にとって、
――嫡男が後を継ぐのでご心配なく――、というメッセージだろうとはヒロシも察知できたが、耐え難い屈辱感であった。ヒロシが受けた人格破壊は人間不信への入り口に差し掛かっていた。
母親は「沈黙は金」を決め込んで、黙ってすべての成り行きを呑み込んだ。仕入が途絶えれば廃業するしかない。何とか業者の信用を繋ぎ止めねばならない、と母親は必至であったに違いない。急場しのぎであれ、そのためには銀行であれ息子であれ何でも利用せねば生き残れない。
京都でも老舗の薬問屋で生まれ育った母親は、商家の娘としての意地と才覚を発揮した。
――跡取りが居る――、と見せかけて債権者を納得させたのだ。嫡男を人質にするのは商家の慣例であり異議を唱える者はいなかった。古い伝統を持つ業界であれば、明日は我が身の社会である。
ヒロシは母親の想いを汲み取り、従順な未成年の嫡男を演じ切った。
――今は自分勝手を言える状態にない――、のである。
辛い事や理不尽な出来事があると、母親はいつも、
――3年間の辛抱や――、とヒロシに言った。
――その後は自分の好きにさせて貰う――、というのがヒロシと母親との暗黙の了解になっていた。
かくして高校の3年間は屈折した暗黒の青春時代になった。放課後は直ぐに帰宅して仕事の手伝い。中学時代3年間続けた野球部など運動部の活動は思いも寄らなかった。部活に励むヒロシを債権者が見ればどう思うか。
「そんな暇があるなら商売を手伝え」あるいは「そんな余裕があるなら借金を返せ」そんな声が聞こえてきそうな張り詰めた雰囲気だった。部活という仲間との付き合いは無理だ。誰に言われたわけではなく、ヒロシははなから諦めていた。仲間と心を合わせて笑い合う余裕がなかった。卑下する訳ではなく<今は彼らとは境遇が違う>と決めていた。
7人いた店員は3年後には2人になっており、
――クラブ活動で家業を手伝えない――、などと言いだせる筈もなかったのである。
ようやく債務を完済したころ、長姉に縁談が持ち込まれた。
気乗りしない姉に母親は、
「会うだけでも良いから」とお見合いをさせた。相手が家業の取引先関係だったので、姉は悩みに悩んだ。彼女は信頼を寄せる恩師と牧師にまで相談した結果、相手に断りを入れた。
「長姉として家業の為に嫁ぐのか」と恩師に問い詰められ、彼女ははっと我に返ったそうだ。
――義理や人情を交えて嫁ぐのは相手に対して失礼だ、それではお互いに長続きしない――
母親も商売のために娘を犠牲にする気はなかったので事は丸く収まった。これを機会に結婚については姉が自立したようにヒロシは感じた。
最終的に彼女が選んだ相手は、6歳年上で国立大学の助手をしていた。文学部で東洋史を専攻するという。
「何か研究に打ち込む男性」が彼女の理想像と聞いていたので肯けた。だが、その相手の実家が<禅寺の住職>というのは怪訝に思った。
何故なら彼女は女子大生の時に<聖公会>の洗礼を受けた敬虔な信者だったからだ。それを問い詰めると、
「相手も禅寺の実家も、キリスト教信者のままでよい」と受け入れてくれたからだという。そして、
「禅寺に生まれたからと言って住職になるとは限らない」らしいのだ。さらに例え僧門に入り住職の跡目を相続しても、その嫁は曹洞宗の信徒でなくても務まるというのだ。姉は「そうなればやるしかない」と覚悟しているという。
――そうだとしても、クリスチャンとして週末の礼拝はどうするのか――
「教会へ行けない時は自宅で祈りを捧げる」
――週末を禅寺で過ごす時は何処で何処を向いて祈るのか――
「信仰を捨てずに心で祈れば何処に居ても通じる、と牧師は言われた」
――わかった、そこまでしても添い遂げる気になった相手なのだ――
「勿論そう勿論そうよ。あなたにはまだ解らないでしょうが」
――なんだ、惚気か――、とヒロシはあきれた。と同時に、
――姉も女なのだ――、と再認識させられた。
家庭に居る時の姉は家族に献身的で、女性らしい感情を見せる事などは無かった。彼女は小・中・高・大の学歴を通じて「優等生」のレッテルを貼られ、それに相応しい日常を貫いた。そんな堅物の彼女をして、惚けさせる男とは。ヒロシは俄に彼に興味を抱いた。
ヒロシが彼と初めて会ったのは自宅であった。デートの帰りに我が家に立ち寄った模様であった。次女と弟であるヒロシが紹介された。母親はその男を商家の習わしで下にも置かないもてなしをした。それでもその男の姿勢は崩れず、謙虚にして真摯な態度で話してくれた。過疎地からの通学、柔道と相撲をたしなむ、という話を真面目にした。「競技かるた」もできると口を滑らせ、姉と手合わせをして大負けしていた。姉が地区大会の競技で入賞する腕前とは知らなかたようだ。そんな時に見せる笑顔に愛嬌があった。
大言壮語の無い実直で純朴な<学者タイプ>と思われ好感を抱いた。丸眼鏡の奥の目がいつも輝いており、商家育ちの姉がこの男性に惹かれる理由が分かる気がした。その青年は純粋に学問を追及する学徒である。研究テーマは中国の歴史における「仏教と社会」という。
だがそれでも、<禅宗住職とキリスト教信者との婚姻>というのは聞いたことが無い。
――「松の木」に「バラの枝」を挿し木するようなものではないか――、という奇異な想いは拭えなかった。
――二人は<険しい道>を選んだ――、とも思った。
婚姻する当人と両家が納得の上でも、寺は檀家という信徒で成り立っている。住職は檀家の墓を維持し葬儀と年会を執り行わねばならない。姉はキリスト教信者であり都会人である。彼女が田舎暮らしに馴れ、檀家衆に受け入れられるのは高いハードルに思えた。だがこの二人には、学歴の優等生という共通点がある。「努力すれば困難は克服できる」という自信があったのであろう。
父親という大黒柱を失って、家族は5人から4人に減っただけでなく役割も変わっていた。母親は商店の舵取りのみならず、自ら知人縁者の紹介先へ商いに廻った。箪笥に眠る古着の滲み抜き、洗い張り、仕立て直しなど何でも請け負った。それを室町筋の職人に下請けに出すのがヒロシの仕事であった。内容は丁稚の使い走りだが時間が読めない。自宅に待機せねばならない事が多かった。
暗黒の高校時代を通じ3年間、ヒロシにとって彼女は<母親代わり>になっていた。母親は家業の切り盛りに多忙を極め、息子の教育どころではなかったからだ。2人の姉はそれぞれ通勤の合間に、交替で食事の世話など主婦業を分担した。店員が居れば食事は先に彼らに給仕せねばならない。親子4人が揃って食事するのは週1日ぐらいだった。だから、
――姉達には幸せな結婚をしてもらいたい――、とヒロシは願っていた。だが、いざその相手が目の前に現れると、家族の営みの一角が崩れる寂しさを覚えた。
ヒロシは「母」とも頼む姉が嫁ぐとなって、自分を取り戻した。自分が「父親の死」に甘えている事に気付いた。自らを<天涯孤独の境遇>と憐れみ、世間に背を向けて<自立自尊>の志を失っていたのだ。
――父親の死去以来自虐的に送った青春は自力で取り戻すしかない――、即ち世間体ではなく、自分に正直に生きることだ。それには、
――自分で自分の人生を切り開くことだ――、自分で決めた事なら誰の故でもなく自分の責任だ。そして改めて自らに問い正した、
――自分は何をしたいのか――
小学4年の作文で「国連の事務総長」になりたいと書いた。京都の「暖簾や因習」と対極にある「世界主義」への憧れが強かったようだ。戦後民主主義を叩きこまれた少年は、とにかく京都から飛び出したかった。大学受験の浪人を経て己の能力を思い知ったヒロシは、大阪の外国語大学へ通った。
その後、次女の縁談が整った時ヒロシは大学3年生の春休みを迎えていた。彼女は独身最後の想い出に家族旅行をしようと言い出した。
<家族旅行>という言葉がヒロシには懐かしい響きを持って聞えた。気付かぬうちに遠い昔の事として葬り去っていたようだ。そういえば父親の死去以来6年間というもの家族揃って旅行したことは一度もなかった。父親の欠けた4人だけの家族旅行など思いもよらなかった。寂しさが募るだけである。
父親は日曜日には行楽地へ家族揃って連れ出してくれた。毎年夏休みには城崎温泉へ出かけた。
――そうか、あれからもう6年も経つのか――、とヒロシは父親に想いを馳せた。あれ以降「家族の団欒」はなくなった。家族が揃って出掛けることも無かった。それぞれが自分の領域を真っすぐ進んで来た。(次女はその慰労会をしようとしているのか)隣の母も、娘の急な申し出をどう受け止めるべきか、と曖昧に微笑んだ。
同居する家族は5人から3人になっていた。そして直ぐにも母親と息子の2人きりになる。そうか、
――嫁げば姉は他家の家族になる――、
ヒロシは姉から
「お母さんを頼むね、あなたは長男なのだから」と言われたように感じた。そして(
今さら3人で家族旅行もないものだ)と、気恥ずかしくなった。
二人が戸惑う気配を見て、姉は畳みかけるように、
「私の感謝の気持ちです。旅行の手配も全てやらせていただきます」
と言う。このために別に貯金もして来た、という姉の顔は上気し目は丸く見開かれていた。こんなに自信に溢れた姉の顔を見るのは初めてである。親への感謝の気持ち、とまで言われて母親に断る理由はない。こうなってはヒロシも従うしかない。(3人家族にさよならの、お別れ会だ)と観念した。
姉は旅行好きで友人仲間とよく個人旅行に出掛けた。荷物を持って駅まで送り迎えするのがヒロシの役目だった。そんな時はいつも、
「あなたは今にいつでも何処でも行けるようになるのだから」というのが口癖だった。自分は結婚すれば自由に行けなくなるから、とも言っていた。
山陽本線を乗り継いで、岡山県の海辺の旅館に泊まり、翌日「鷲羽山」を観光した。姉と母親は愉快げに語らい明るく振る舞っていた。が、ヒロシには家族5人で夏休みを過ごした「城崎温泉」が想い出され浮かぬ気分だった。
5人の家族が4人になり、3人になり、次女が嫁いだ後はヒロシと母親の2人きりになる。寂しくなるといったセンチメントでは済まされない。ヒロシ1人の肩に、母親の行く末が掛かって来る。末っ子乍ら長男として家督を継ぐ責任である。もう逃れられないぞ、と喉元に短剣を突きつけられた。これが次女としての「けじめ」の付け方だった。これで彼女は後顧の憂いなく婚家先に飛び込めるだろう。
だが後を託されたヒロシはまだ大学生。<家督を継ぐ>姉達はヒロシに「お母さんを宜しくね」という覚悟はできていい。
<母親と2人だけの生活>というのは、ヒロシの将来設計にはなかった。<母親と同居した自分の家族>という構図も描いたことがなかった。だが母親はそれどころか、このままでは母親の住む京都に縛られる、という強い圧力を感じた。を許してくれるという甘えを持っていた。
母親と。ヒロシは大学在学中に渡航しようと焦った。何としても京都を脱出して世界に飛び出したかったからだ。
最初に考えたのが、学生による学術調査隊であったが、1年先輩のメキシコ古代文明で先を越された。全国紙を廻って後援を頼んだが新鮮味に欠け却下された。
次に目論んだのが「学生海外移住連盟」への加盟であった。移住連盟は、農学部系の「拓殖事業」が主体で、国家予算で海外へ留学する制度があった。そこに目を付けて「外国語学部」として「文化交流」を目的とした留学を申請した。が、これも働きかけが1歩遅く、神戸の大学に先を越された。
そうこうするうちに、就職活動をする4年の春を迎えた。かねてより憧れていた新聞記者の「海外特派員」を目指したが、1次のペーパー試験で降参した。
一方大企業の新人募集は、いわゆる「証券不況」の煽りで人員半減、採用見合わせが相次ぎヒロシは苦境に立った。1964年の東京オリンピック後の金融引き締めで、経済は高度成長の踊り場に来ていた。何としても海外へ出たかったヒロシは必至の思いで商社に滑り込んだ。
母親は就職を喜び、大学卒業式にも参列した。そして就職祝いに家族旅行を計画した。たった2人きりの家族旅行であったが、お互いによく頑張ったという慰労の気持ちが強かったのだ。
母親は入学に際し、学費は「育英奨学金」を受けて払う事。その学費は親である自分が返済すると言った。それが彼女の「たてまえ」だと了解し、ヒロシは京都の自宅から大阪まで通学し、バイト代を稼いで小遣いとした。
ヒロシの卒業の年に母親は商店の看板を降ろし、退職金に加えて「商権」をヒロシの従弟に譲渡した。商店の負債も完済し、将来の貯えも多少できた余裕が感じられた。彼女は夫
の死後8年間個人商店を守り抜いた。これは彼女が
引き継いだ血筋のなせる業であり、商家育ちの意地である。商家生まれでなければ、夫の起こした家業を引き継ぐ才覚はなかったであろう。彼女は確かに「商魂」を発揮した。ヒロシは旅行先の姫路城を観光しながら、いつになくはしゃぐ彼女を誇らしく見守った。
彼女は「高等女学校」を卒業した、というのが自慢であり自信になっていた。当時の女性に開かれた最高学府の教育を受けた、というのが彼女の精神的な支えになっていたようだ。父親が姉達2人の大学進学に反対しても、母親は娘たちの味方をして卒業させた。父親は息子であるヒロシに家業を継がせたい、と切望していた節がある。一方母親の息子に対する期待はもっと大きいと感じていた。京都の伝統的な「和服」業界は、近いうちに斜陽産業になるとヒロシに漏らしていたからだ。
1966年春ヒロシは「家業の継承」を免れ、希望通り商社へ就職した。父親の後見役を務めてくれた呉服商の叔父に、改めて御礼の挨拶に行った。その叔父が、
「時代は変わった。もっと大きな舞台で思う存分暴れてこい」と言って喜んでくれた。ヒロシはこの時、後見者からもお墨付きを貰ったのだ。すぐその後、彼の息子も家業の呉服商を継がず流通業の道へと進んで行った。世代が替わり時代が変わったのである。
此処までは或は母親の思惑通りであったろう。ところが新入社員の研修が終わり、配属が決まった時から事態は急転回した。
ヒロシの辞令は東京支店勤務。しかも配属先は希望の繊維部ではなく食品部であった。大阪本社採用で東京勤務となったのはヒロシ一人だけ。この人事をどう受け止めるべきかよりも、どう母親に伝えようかと困惑した。母親にそのまま伝えると気丈に、
「それは会社に見込まれたんやね。ええことや。」と言っていたが、夕食後になってしんみりと、
「昨夜の夢枕に兄さんが出て来たので胸騒ぎがしていた」
「あれは兄さんが知らせに来てくれたのだ」
「兄さんは純白の制服制帽にサーベルを下げて敬礼していた」
とぽつりぽつり語り始めた。
彼は海軍兵学校に行って訓練中に落馬骨折。頭部打撲の損傷により植物人間になったそうである。当時まだ存命中であったが、何故か母親は一度もヒロシに会せなかった。母親は実家の両親に兄、そして夫も失った喪失感。息子を遠くへ送る不安感。一人暮らしになる寂寥感。その夜の母親は背を丸めてじっとこれらに耐え忍んだ。息子の出世のためである。
それから1週間、彼女は息子の東京勤務を実兄の出征という事例に置き換えて受け入れようとした。彼女の必死の努力に「明治女の美徳」さえ感じた。
――これで京都を離れて東京へ行ける――、ヒロシはほっと胸を撫でおろした。親不孝な息子である。