<世田谷物語>ー(9)大卒50周年の集い

 世田谷の自宅から駒沢公園へ午前のウオーキングをしながらヒロシは考え  た。[定年は通過点にすぎない]という前向きな姿勢は立派だ。

 だがそこから何処へ行くのか、その目標のはっきりしている人は少ないのではないか。「それは定年になってから考える」では遅い場合が多いのだ。

 いづれにせよ定年は節目であり、自分が過去のある時点で描いた自分の未来像と較べる良い機会になる筈だ。ヒロシが60歳の定年後の目標を意識したのは57歳の時であった。

 それまでは、退職金と年金を元にしてどう生計を立てるかという経済面のやり繰り算段ぐらいであった。その種のビジネス書は、「45歳から始める金持ち老後」などの入門書の類をあまた読んだが解答などない。

 インターネットで株式・投信・公債などの資産運用を始めたのもその頃だった。これらは当初上手くいっていたが、のちに2008年のリーマンショックで大幅に減損した。いづれにせよ資産運用はやりくりの手段であり人生の目標にはなり得ない。

 ヒロシの場合、運よく60歳の定年と同時に個人の有限会社が設立できた。役員は自分と妻の二人、社員ゼロのワンマンオフィスながら

銀座に事務所を開いた。それは現役時代の取引先の後押しのお蔭であった。

 それでも、有り余る時間を持て余し、OB会や同期会の幹事を引き受けた。大学同期の仲間とは読書会も始めた。週2ー3回のスポーツクラブと散歩で運動不足を補った。友人の勧めと指導で卓球の教室にも通い始めた。

 こうして定年後も世田谷の自宅から13年間通勤したが、14年目に会社の登記を抹消して税務署に廃業届を提出した。

 その直接の契機は台湾のパートナーの病死により取引が先細りになった事であり、相前後して銀座の事務所ビルが建て替えとなった事だ。

 自宅に撤去して通勤しなくなると、途端に日常の景色が激変した。

 その時、このままでは「定年呆け」になって終う、との強い危機感を覚えた。

 まだ73歳であった。

 まだ「先は長い」と思った。呆けるには若すぎる。

 いま一度人生100歳という登山なら7合目で立止まって、来し方を俯瞰し頂上を仰ぎ見る時であろうと自覚を改にした。

 視界が不良であれば晴れるまで待 てばよい。体力的に病んでいれば治療に専念すればよい。

 もし未だこの先に目指す「目標」が持てれば頑張り方を工夫せねばならない。

 そんな思いをしていたヒロシに名古屋の大村から連絡が入った。

「久し振りに同期の全員集合をやろう」という呼び掛けだった。ヒロシは、

「またかよ」とうんざりしながらも、いいタイミングかもな、と思い直してすぐに応諾した。

「来年は俺たち卆50周年だから、節目としては絶好かもな」と返信メールした。

 ヒロシはちょうど大学OB会の幹事として「卆50周年生」を総会に呼び込む企画をしていたからである。だがメールを発信してから、

「しまった、また世話役の仕事が増えるな」というもう一人の自分もいたが、まあいつもの事だとヒロシは自らを笑うしかなかった。

「俺は損な性分だな」と、世話役を引き受けてから思わんでもないが、いつも自分でやりたい気持ちの方が勝ってしまう。それが生甲斐の一つになっているのかも知れないと諦めるしかない。

 それにしても、いつも言い出しっぺは大村だが幹事をしたことはない。幹事と世話役とを仰せつかるのはヒロシであった。

 ヒロシは常々

「世話役はするが同期会の幹事は皆で持回りにしよう」と言って来ている。

 そこで今回はいつも言い出しっぺのくせに幹事をやっていない大村にやらせよう、と計を案じた。

「関西・関東の合同は・・・第一回が京都で還暦祝い、二回目が沖縄ツアー、三回・四回目が宝塚で五回目が六甲山荘。だから今回は中部地区がいいかな。何処かひなびた温泉宿でゆっくりしたいな。どうだろう」と、大村に幹事役を振ってみた。

 と、意外にも、というか覚悟の上で電話して来たのか、

「温泉か、いいね。それなら奥三河にいくらでもあるから当たってみるよ」

 と請け負ってきた。

 ヒロシは瓢箪に駒であるが、もう後には引けなくなって世話役を仰せつかる破目になった。

 時期はあらかじめ、常連たちの都合を打診した末、若葉の5月として大村が温泉宿(奥三河湯谷温泉 「湯の風HAZU」)の手配をした。

 集合状態の首尾は上々で、東西併せて14名が豊橋に集合し、湯谷温泉へ向かった。

  

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仲良し2人組が別シートに

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    豊橋からJR飯田線に乗り換え奥三河湯谷温泉駅
         to  be  continued

 



 

 

 






京都洛中物語(1)奈落の淵 京都府立医大の夜勤と父の最期

(1)奈落の淵 京都府立医大の夜勤と父の最期

 

ヒロシに中学3年の夏の出来事がフラッシュバックした。野球部の主将として敗退した時の記憶だった。あの時は父親との死別と重なって辛い想いをした。父親の命日が7月6日で試合が15日。初七日の法要を終えると直ぐにチームに復帰した。そして最後の公式戦であるトーナメントの1回戦で敗れた。父親を亡くした時のショックで試合の事はまるで記憶していない。

ヒロシは父親を看取った瞬間、

――自分は天涯孤独になった――、という寂寥感に襲われた。思春期を迎えて人生これから、という時に支柱を失ったダメージは大きかった。精神的にも経済的にも。父親という世間との隔壁を突然外されたからだ。

――これは試練だ、負けてたまるか――と身体中の全神経を張り詰めた。大人の世界には根深いものがある、と予知していたからだ。

父親は昼食中にヒロシの目の前で、いきなり目を剥いて仰向けにひっくり返った。駄々っ子がするように両足を上げて全身を痙攣させた。何が起こったのか見当もつかなかった。母親は本能的にその上に覆い被さって叫んでいた。

「お父さんどうしたんですか、大丈夫ですか」

駆けつけた医者の見立ては<脳溢血>。その後も小さな発作は起こったが間隔が延びてゆく。静かな寝息に変わった頃合いを見計らって病院へ運ばれた。治療する間もなく病院で4日間昏睡して息絶えた。

その間1度だけ、それもほんの20-30秒意識が戻った。身体はピクリともせず、目だけで家族の顔をぐるりと見廻した。病室のベッドに居る状況を察知したのかにやりと左頬が動いたように思えた、照れたときの父親の仕種であった。 

それと察知した母親が期待感を込めて静かに、

「お父さんわかりますか」と耳元へ顔を寄せて囁くように言っても反応は無い。父親は、あれっという表情で顔を上げた途端にまた発作が起きた。発作はそれから一時止まっても断続的に頻発した。

 

ヒロシは何度も夜間に父親の発作を看護士の詰め所に通報をした。夜間なのに詰め所はいつも看護士の談笑で賑わっていた。とても病院とは思えぬ明るいスポットだった。4日目の深夜に看護士詰め所に通報をした時、

――発作です00号室です――、と叫んでもその談笑は途切れなかった。父親の一大事を声高に訴えるヒロシは<狼少年>扱いになっていた。そして誰が病室へ行くかが決まるのを、頭を下げて待った。いつもの事である。

だがその日その瞬間、ヒロシに<人間不信>が芽生えた。ナイチンゲールと白衣の天使が脳味噌から吹っ飛んだ。彼女たちも自分と同じ人間なのだ。

――そうか、大人は子供に嘘の世界を見せていたのだ――、とヒロシは確信した。実社会は教科書とは別世界だ。

――子供には大人たちに都合の良い事を教えている――、

と悟った。それは大人が、

――自分達大人の世界を楽しむためだ――

子供は大人によって作られた<第三>の世界で育てられている。大人は油断ならないぞ、と心で構えた。同時に、

――大人に負けてたまるか――、とも思った。でなければ自分の人生が惨めになる。

 父親は一度意識が戻ってきょとんとし、にたっと笑った後、頻発した発作が止んで息絶えた。

「おとうさんおとうさん聞こえますか・・・・」と今度は耳元で声高に叫ぶ母親に対して何の反応もなかった。ヒロシは看護士詰め所の頼りなさにあきれた。そしてそんな詰め所に、発作のつど急を知らせに走るしかなかった自分も不甲斐無いと思った。無駄な事だったのか。あれもこれも、医師はお見通しだったのだ。ならばなぜそうと担当医は言ってくれなかったのか。

駆けつけた当直の<医師>によって父親の死亡を宣告されたのは、その15-20分後だった。それは死亡時刻を記録するための手続きだった。入院中は何の検査も治療も受けていない。交替で24時間付き添った家族の疲労はピークに達していた。自宅で留守番役の長姉は死に目に会えなかった。

母親は事務的な手続きに追われていた。家族揃って泣くひまも与えられない理不尽なあつかいにヒロシは憤りをおぼえた。親父も病院も何をしているのだ、冗談じゃない、とても受入れられるものではない。

――親父どうしてくれるんだ、俺を残して――、と心で叫んだ。自分は末っ子ながら長男である。二人の姉たちとは立場が違う。

――これからは自分が家業の責を担って世間の荒波に乗り出すことになる――、という思いだった。涙は一滴もこぼれてはこなかった。

 

 15歳のヒロシは自分なりに身構えた。親族の、取引先の誰がどういう態度をしてくるか。どういう試練が自分に待ち受けているのか。それに負けない為には如何にすべきか。個人商店の当主が死ねばその家族を含めた環境が激変する。後継者は誰だ、息子は何歳になる、という世間の好奇に晒されている自分を感じていた。

そんな覚悟にもかかわらず現実は想像をはるかに超えるものであった。葬儀の翌日、さっそく自宅の2階で債権者会議が開かれた。発行済み手形の処理が猶予の無い先決問題だ。銀行渡りで市場に廻った分は知人・友人・親戚から借金してでも落とさねばならない。まだ債権者の手の内にある手形は銀行に廻さないよう願い出た。母と保証人の叔父とが、跡取り息子のヒロシを真ん中に据えて、何度も頭を下げて頼んだ。債権者は沈鬱な面持ちであった。それぞれ資金繰りの算段に思いを巡らせているようだった。この場は同業者である叔父の信用力のお蔭で乗り切った。京都の呉服商仲間である「室町筋」は先祖代々の信用で繋がっていた。古くは室町時代の応仁の乱以来の付き合いもある。その信用で3年間の延べ払いと合議がまとまり、同業者の叔父が保証人に立った。

 

 家業は廃業を免れたが、ヒロシの立場は「呉服屋のぼんぼん」から「債務者の嫡男」へと激変した。そこまでは朧げながら想定できたが、現実は加虐的に身辺に押し寄せた。法的償いに伴った社会通念上の<人格破壊>という「仕置き」が待っていた。拭い去るのに3年掛かった。青春真っ只中の3年は長く感じた。

 ヒロシが知っている世界は華やかな「表の世界」に過ぎなかった。それは氷山に例えれば海面上の「一角」だ。それがいきなり、海面下に沈む氷山の下層部に突き落とされた。そこで見える世界は、海面上よりもはるかに大きかった。

 機織生産者・染色業者は家内工業。延払いによる損害は大きかったに違いない。ヒロシに対して愛嬌を振りまいていた仕入先の主人・家族が<手の平>を返した。染色・洗い直し等を頼んでも忙しい時には後回しになった。忙しい季節は此方は稼ぎ時なだけにこの仕打ちは堪えた。

景気が悪くなると毎月末延滞金を払いに行くヒロシに辛く当たる業者が増えた。母親はそれを予知して、業者への支払いには店員ではなくヒロシを使いに出した。父親に代わって商店を経営する母親にとって、

――嫡男が後を継ぐのでご心配なく――、というメッセージだろうとはヒロシも察知できたが、耐え難い屈辱感であった。ヒロシが受けた人格破壊は人間不信への入り口に差し掛かっていた。

母親は「沈黙は金」を決め込んで、黙ってすべての成り行きを呑み込んだ。仕入が途絶えれば廃業するしかない。何とか業者の信用を繋ぎ止めねばならない、と母親は必至であったに違いない。急場しのぎであれ、そのためには銀行であれ息子であれ何でも利用せねば生き残れない。

京都でも老舗の薬問屋で生まれ育った母親は、商家の娘としての意地と才覚を発揮した。

――跡取りが居る――、と見せかけて債権者を納得させたのだ。嫡男を人質にするのは商家の慣例であり異議を唱える者はいなかった。古い伝統を持つ業界であれば、明日は我が身の社会である。

ヒロシは母親の想いを汲み取り、従順な未成年の嫡男を演じ切った。

――今は自分勝手を言える状態にない――、のである。

辛い事や理不尽な出来事があると、母親はいつも、

――3年間の辛抱や――、とヒロシに言った。

――その後は自分の好きにさせて貰う――、というのがヒロシと母親との暗黙の了解になっていた。

 

かくして高校の3年間は屈折した暗黒の青春時代になった。放課後は直ぐに帰宅して仕事の手伝い。中学時代3年間続けた野球部など運動部の活動は思いも寄らなかった。部活に励むヒロシを債権者が見ればどう思うか。

「そんな暇があるなら商売を手伝え」あるいは「そんな余裕があるなら借金を返せ」そんな声が聞こえてきそうな張り詰めた雰囲気だった。部活という仲間との付き合いは無理だ。誰に言われたわけではなく、ヒロシははなから諦めていた。仲間と心を合わせて笑い合う余裕がなかった。卑下する訳ではなく<今は彼らとは境遇が違う>と決めていた。

7人いた店員は3年後には2人になっており、

――クラブ活動で家業を手伝えない――、などと言いだせる筈もなかったのである。

 ようやく債務を完済したころ、長姉に縁談が持ち込まれた。

気乗りしない姉に母親は、

「会うだけでも良いから」とお見合いをさせた。相手が家業の取引先関係だったので、姉は悩みに悩んだ。彼女は信頼を寄せる恩師と牧師にまで相談した結果、相手に断りを入れた。

「長姉として家業の為に嫁ぐのか」と恩師に問い詰められ、彼女ははっと我に返ったそうだ。

――義理や人情を交えて嫁ぐのは相手に対して失礼だ、それではお互いに長続きしない――

 母親も商売のために娘を犠牲にする気はなかったので事は丸く収まった。これを機会に結婚については姉が自立したようにヒロシは感じた。

最終的に彼女が選んだ相手は、6歳年上で国立大学の助手をしていた。文学部で東洋史を専攻するという。

「何か研究に打ち込む男性」が彼女の理想像と聞いていたので肯けた。だが、その相手の実家が<禅寺の住職>というのは怪訝に思った。

何故なら彼女は女子大生の時に<聖公会>の洗礼を受けた敬虔な信者だったからだ。それを問い詰めると、

「相手も禅寺の実家も、キリスト教信者のままでよい」と受け入れてくれたからだという。そして、

「禅寺に生まれたからと言って住職になるとは限らない」らしいのだ。さらに例え僧門に入り住職の跡目を相続しても、その嫁は曹洞宗の信徒でなくても務まるというのだ。姉は「そうなればやるしかない」と覚悟しているという。

――そうだとしても、クリスチャンとして週末の礼拝はどうするのか――

「教会へ行けない時は自宅で祈りを捧げる」

――週末を禅寺で過ごす時は何処で何処を向いて祈るのか――

「信仰を捨てずに心で祈れば何処に居ても通じる、と牧師は言われた」

――わかった、そこまでしても添い遂げる気になった相手なのだ――

「勿論そう勿論そうよ。あなたにはまだ解らないでしょうが」

――なんだ、惚気か――、とヒロシはあきれた。と同時に、

――姉も女なのだ――、と再認識させられた。

家庭に居る時の姉は家族に献身的で、女性らしい感情を見せる事などは無かった。彼女は小・中・高・大の学歴を通じて「優等生」のレッテルを貼られ、それに相応しい日常を貫いた。そんな堅物の彼女をして、惚けさせる男とは。ヒロシは俄に彼に興味を抱いた。

 

ヒロシが彼と初めて会ったのは自宅であった。デートの帰りに我が家に立ち寄った模様であった。次女と弟であるヒロシが紹介された。母親はその男を商家の習わしで下にも置かないもてなしをした。それでもその男の姿勢は崩れず、謙虚にして真摯な態度で話してくれた。過疎地からの通学、柔道と相撲をたしなむ、という話を真面目にした。「競技かるた」もできると口を滑らせ、姉と手合わせをして大負けしていた。姉が地区大会の競技で入賞する腕前とは知らなかたようだ。そんな時に見せる笑顔に愛嬌があった。

大言壮語の無い実直で純朴な<学者タイプ>と思われ好感を抱いた。丸眼鏡の奥の目がいつも輝いており、商家育ちの姉がこの男性に惹かれる理由が分かる気がした。その青年は純粋に学問を追及する学徒である。研究テーマは中国の歴史における「仏教と社会」という。

だがそれでも、<禅宗住職とキリスト教信者との婚姻>というのは聞いたことが無い。

――「松の木」に「バラの枝」を挿し木するようなものではないか――、という奇異な想いは拭えなかった。

――二人は<険しい道>を選んだ――、とも思った。

婚姻する当人と両家が納得の上でも、寺は檀家という信徒で成り立っている。住職は檀家の墓を維持し葬儀と年会を執り行わねばならない。姉はキリスト教信者であり都会人である。彼女が田舎暮らしに馴れ、檀家衆に受け入れられるのは高いハードルに思えた。だがこの二人には、学歴の優等生という共通点がある。「努力すれば困難は克服できる」という自信があったのであろう。

 

 

 

父親という大黒柱を失って、家族は5人から4人に減っただけでなく役割も変わっていた。母親は商店の舵取りのみならず、自ら知人縁者の紹介先へ商いに廻った。箪笥に眠る古着の滲み抜き、洗い張り、仕立て直しなど何でも請け負った。それを室町筋の職人に下請けに出すのがヒロシの仕事であった。内容は丁稚の使い走りだが時間が読めない。自宅に待機せねばならない事が多かった。

暗黒の高校時代を通じ3年間、ヒロシにとって彼女は<母親代わり>になっていた。母親は家業の切り盛りに多忙を極め、息子の教育どころではなかったからだ。2人の姉はそれぞれ通勤の合間に、交替で食事の世話など主婦業を分担した。店員が居れば食事は先に彼らに給仕せねばならない。親子4人が揃って食事するのは週1日ぐらいだった。だから、

――姉達には幸せな結婚をしてもらいたい――、とヒロシは願っていた。だが、いざその相手が目の前に現れると、家族の営みの一角が崩れる寂しさを覚えた。

 

 

ヒロシは「母」とも頼む姉が嫁ぐとなって、自分を取り戻した。自分が「父親の死」に甘えている事に気付いた。自らを<天涯孤独の境遇>と憐れみ、世間に背を向けて<自立自尊>の志を失っていたのだ。

――父親の死去以来自虐的に送った青春は自力で取り戻すしかない――、即ち世間体ではなく、自分に正直に生きることだ。それには、

――自分で自分の人生を切り開くことだ――、自分で決めた事なら誰の故でもなく自分の責任だ。そして改めて自らに問い正した、

――自分は何をしたいのか――

 小学4年の作文で「国連の事務総長」になりたいと書いた。京都の「暖簾や因習」と対極にある「世界主義」への憧れが強かったようだ。戦後民主主義を叩きこまれた少年は、とにかく京都から飛び出したかった。大学受験の浪人を経て己の能力を思い知ったヒロシは、大阪の外国語大学へ通った。

 

 

 

 

 その後、次女の縁談が整った時ヒロシは大学3年生の春休みを迎えていた。彼女は独身最後の想い出に家族旅行をしようと言い出した。

<家族旅行>という言葉がヒロシには懐かしい響きを持って聞えた。気付かぬうちに遠い昔の事として葬り去っていたようだ。そういえば父親の死去以来6年間というもの家族揃って旅行したことは一度もなかった。父親の欠けた4人だけの家族旅行など思いもよらなかった。寂しさが募るだけである。

父親は日曜日には行楽地へ家族揃って連れ出してくれた。毎年夏休みには城崎温泉へ出かけた。

――そうか、あれからもう6年も経つのか――、とヒロシは父親に想いを馳せた。あれ以降「家族の団欒」はなくなった。家族が揃って出掛けることも無かった。それぞれが自分の領域を真っすぐ進んで来た。(次女はその慰労会をしようとしているのか)隣の母も、娘の急な申し出をどう受け止めるべきか、と曖昧に微笑んだ。

同居する家族は5人から3人になっていた。そして直ぐにも母親と息子の2人きりになる。そうか、

――嫁げば姉は他家の家族になる――、

ヒロシは姉から

「お母さんを頼むね、あなたは長男なのだから」と言われたように感じた。そして(

今さら3人で家族旅行もないものだ)と、気恥ずかしくなった。

 二人が戸惑う気配を見て、姉は畳みかけるように、

「私の感謝の気持ちです。旅行の手配も全てやらせていただきます」

と言う。このために別に貯金もして来た、という姉の顔は上気し目は丸く見開かれていた。こんなに自信に溢れた姉の顔を見るのは初めてである。親への感謝の気持ち、とまで言われて母親に断る理由はない。こうなってはヒロシも従うしかない。(3人家族にさよならの、お別れ会だ)と観念した。

姉は旅行好きで友人仲間とよく個人旅行に出掛けた。荷物を持って駅まで送り迎えするのがヒロシの役目だった。そんな時はいつも、

「あなたは今にいつでも何処でも行けるようになるのだから」というのが口癖だった。自分は結婚すれば自由に行けなくなるから、とも言っていた。

山陽本線を乗り継いで、岡山県の海辺の旅館に泊まり、翌日「鷲羽山」を観光した。姉と母親は愉快げに語らい明るく振る舞っていた。が、ヒロシには家族5人で夏休みを過ごした「城崎温泉」が想い出され浮かぬ気分だった。

 

5人の家族が4人になり、3人になり、次女が嫁いだ後はヒロシと母親の2人きりになる。寂しくなるといったセンチメントでは済まされない。ヒロシ1人の肩に、母親の行く末が掛かって来る。末っ子乍ら長男として家督を継ぐ責任である。もう逃れられないぞ、と喉元に短剣を突きつけられた。これが次女としての「けじめ」の付け方だった。これで彼女は後顧の憂いなく婚家先に飛び込めるだろう。

だが後を託されたヒロシはまだ大学生。<家督を継ぐ>姉達はヒロシに「お母さんを宜しくね」という覚悟はできていい。

<母親と2人だけの生活>というのは、ヒロシの将来設計にはなかった。<母親と同居した自分の家族>という構図も描いたことがなかった。だが母親はそれどころか、このままでは母親の住む京都に縛られる、という強い圧力を感じた。を許してくれるという甘えを持っていた。

 

母親と。ヒロシは大学在学中に渡航しようと焦った。何としても京都を脱出して世界に飛び出したかったからだ。

最初に考えたのが、学生による学術調査隊であったが、1年先輩のメキシコ古代文明で先を越された。全国紙を廻って後援を頼んだが新鮮味に欠け却下された。

 次に目論んだのが「学生海外移住連盟」への加盟であった。移住連盟は、農学部系の「拓殖事業」が主体で、国家予算で海外へ留学する制度があった。そこに目を付けて「外国語学部」として「文化交流」を目的とした留学を申請した。が、これも働きかけが1歩遅く、神戸の大学に先を越された。

 そうこうするうちに、就職活動をする4年の春を迎えた。かねてより憧れていた新聞記者の「海外特派員」を目指したが、1次のペーパー試験で降参した。

一方大企業の新人募集は、いわゆる「証券不況」の煽りで人員半減、採用見合わせが相次ぎヒロシは苦境に立った。1964年の東京オリンピック後の金融引き締めで、経済は高度成長の踊り場に来ていた。何としても海外へ出たかったヒロシは必至の思いで商社に滑り込んだ。

 母親は就職を喜び、大学卒業式にも参列した。そして就職祝いに家族旅行を計画した。たった2人きりの家族旅行であったが、お互いによく頑張ったという慰労の気持ちが強かったのだ。

 母親は入学に際し、学費は「育英奨学金」を受けて払う事。その学費は親である自分が返済すると言った。それが彼女の「たてまえ」だと了解し、ヒロシは京都の自宅から大阪まで通学し、バイト代を稼いで小遣いとした。

 ヒロシの卒業の年に母親は商店の看板を降ろし、退職金に加えて「商権」をヒロシの従弟に譲渡した。商店の負債も完済し、将来の貯えも多少できた余裕が感じられた。彼女は夫

の死後8年間個人商店を守り抜いた。これは彼女が

引き継いだ血筋のなせる業であり、商家育ちの意地である。商家生まれでなければ、夫の起こした家業を引き継ぐ才覚はなかったであろう。彼女は確かに「商魂」を発揮した。ヒロシは旅行先の姫路城を観光しながら、いつになくはしゃぐ彼女を誇らしく見守った。

 彼女は「高等女学校」を卒業した、というのが自慢であり自信になっていた。当時の女性に開かれた最高学府の教育を受けた、というのが彼女の精神的な支えになっていたようだ。父親が姉達2人の大学進学に反対しても、母親は娘たちの味方をして卒業させた。父親は息子であるヒロシに家業を継がせたい、と切望していた節がある。一方母親の息子に対する期待はもっと大きいと感じていた。京都の伝統的な「和服」業界は、近いうちに斜陽産業になるとヒロシに漏らしていたからだ。

 1966年春ヒロシは「家業の継承」を免れ、希望通り商社へ就職した。父親の後見役を務めてくれた呉服商の叔父に、改めて御礼の挨拶に行った。その叔父が、

「時代は変わった。もっと大きな舞台で思う存分暴れてこい」と言って喜んでくれた。ヒロシはこの時、後見者からもお墨付きを貰ったのだ。すぐその後、彼の息子も家業の呉服商を継がず流通業の道へと進んで行った。世代が替わり時代が変わったのである。 

 此処までは或は母親の思惑通りであったろう。ところが新入社員の研修が終わり、配属が決まった時から事態は急転回した。

ヒロシの辞令は東京支店勤務。しかも配属先は希望の繊維部ではなく食品部であった。大阪本社採用で東京勤務となったのはヒロシ一人だけ。この人事をどう受け止めるべきかよりも、どう母親に伝えようかと困惑した。母親にそのまま伝えると気丈に、

「それは会社に見込まれたんやね。ええことや。」と言っていたが、夕食後になってしんみりと、

「昨夜の夢枕に兄さんが出て来たので胸騒ぎがしていた」

「あれは兄さんが知らせに来てくれたのだ」

「兄さんは純白の制服制帽にサーベルを下げて敬礼していた」

とぽつりぽつり語り始めた。

彼は海軍兵学校に行って訓練中に落馬骨折。頭部打撲の損傷により植物人間になったそうである。当時まだ存命中であったが、何故か母親は一度もヒロシに会せなかった。母親は実家の両親に兄、そして夫も失った喪失感。息子を遠くへ送る不安感。一人暮らしになる寂寥感。その夜の母親は背を丸めてじっとこれらに耐え忍んだ。息子の出世のためである。

それから1週間、彼女は息子の東京勤務を実兄の出征という事例に置き換えて受け入れようとした。彼女の必死の努力に「明治女の美徳」さえ感じた。

――これで京都を離れて東京へ行ける――、ヒロシはほっと胸を撫でおろした。親不孝な息子である。

<世田谷物語>-(11)Never too late,俳句に活路

 俳句との出会いはいつか?と想い起せば高校2年生であろうか。

もちろん俳句の事なら小学生の国語の教科で教わっている。それは和歌の分派として芭蕉に始まる俳諧五七五の知識であり、試験に出てくる古典文学であった。

 

 高2の時に私塾した先生が俳句結社の同人であった事は幸運であったようだ。でなければボクが晩年になってやってみようとは思わなかったに違いない。

 その先生には大学受験の準備に疎いボクを案じた姉が強引に通わせた。その人は姉の恩師の兄で、受験勉強の指導が終わるや俳句会になった。

 それは無味乾燥な受験勉強に潤いを、という先生の思いやりなのだが、褒められた記憶もなく面白味が分かるまでには至らなかった。

 

 それ以来何十年と俳句とは無縁の「エコノミーアニマル」となったボクが俳句を意識したのは結婚してからとなる。

 妻の母親が「京鹿子」という関西の雄たる俳句結社の「同人」だったのである。当然当時のボクに俳壇におけるその凄さなど分かりようもない。義母も俳人として偉ぶったりする素振りさえボクに見せた事はなかった。偉さが分かったのは自分が俳句を詠み始めてからになる。

 

 それは身内だけで催した義母を偲ぶ「追悼句会」から始まった。

1周忌に詠んだ句を日経新聞の俳壇欄に投稿したら入選掲載されたのである。ビギナーズ・ラックなのだが新聞紙面に自分の名前が出るのは嬉しいものである。

 ボク自身は勿論としてそれよりも、母を亡くして沈痛な日々を送っていた妻の方が何倍も喜んでくれたのが嬉しかった。

 妻は俳句欄のコピーを親戚の皆に送って喜んでくれたのである。それに応えて身内からは祝福と敬意のメールが届きボクに「錯覚」を芽生えさせてくれた。60歳の時にビジネス本を出版した時以来の事であった。

 人生を振り返れば、その転機にはいつも何かが背中を押してくれている。褒められて気をよくしたボクは、その後も日経の俳壇に投稿を続け年に2-3回は掲載、特選の栄に浴していた。

  そんなボクにまた人生の転機が来た。今度はエコノミック・アニマルがビジネスから離れるという一大転機であった。

 京都の商家に生まれ育ったボクが東京の世田谷で商人を廃業するという瞬間なのである。この感慨を共有してくれる人は身内も含め誰もいなかった。

 

  2014年12月末に銀座の事務所を退出し、パソコン、ファックス、オーデイオ機器、書籍・書類・データ資料などを世田谷の自宅に撤去したボクは、新年を迎えた途端行き場がなくなった。

 居場所ならある。いや算段して無理やり自宅に作った。

2階の洋間6畳に銀座の事務所の全てを押し込み、引っ越し家屋の状態で仕事を継続すべく新しい仕事場にした。

 ダイニングキッチン・居間のある1階から2階の仕事場に移動するのは電車通勤が省かれ、身体的には至極楽になったのだが・・・・・家庭的な日常からビジネスマインドに移るには、アプローチとスイッチが必要なることを痛感した。

 

 銀座のオフィスは京都という地方人にとって夢であり憧れであった。だから理屈とか必然とかではなく、見栄っぱりのブランド買いといった所業である。

 だから銀座から世田谷に移ったからと言って不便する取引先は誰もいなかった。

 困ったのは当人であるボクだけだった。いや内心、誰かが困って欲しかったのだが、それは取引先の誰でもなく身内で個人会社で唯一の法的パートナーである妻だけという具合であった。

 

 というのもいま迄妻にとってボクは、いわゆる「亭主元気で留守がよい」の亭主だった。

 留守どころか亭主は元気なままで自宅にステイして、在宅勤務を始めたのである。一番困惑したのは妻であり、日常生活は根底から覆るという、結婚以来最大の変革であった。

 その40数年に及ぶ絆を(夫婦お互いの想念を)刷新せねばならない必然性が彼女の身に起こったのである.。

 彼女が自身の生涯にたしいて描いていた理想像があったとすれば、現実とのギャップは大きかったに違いない。

 だが妻はその最悪のシナリオの始まりを想定内であったかの如く受け入れ、いよいよ来るものが来たかと観念した風であった。

 

 但し生活様式の劇的変化に対して夫婦お互いに、思惑の違いが徐々に顕現してきた。

 朝食を済ませても2階とはいえ在宅する夫はどうであろうか。妻として鬱陶しい存在なのは当然として、2階で仕事に熱中する夫には閉口した様子が見受けられた。

 まず昼食を用意せねばならない。夫は仕事が一段落しないと昼食に2階から降りてこない。そのタイミングは顧客次第となれば妻は困惑するばかりである。商家出身のボクには当たり前で違和感は全くなかったが、これを考慮せねば妻と仕事との共存は出来なくなる。

 そんな杞憂に止めを打ったのは台湾の取引の後継者の逝去であった。それを機に会社の法人登録を抹消し完全にビジネスとは決別し会社を閉じた。

 

 

 

久保義昭氏を偲ぶ会に寄せて

<久保義昭氏の追悼写真>

2023年3月16日の偲ぶ会に寄せて

大阪外国語大学イスパニア語学科同期生一同(本城清 記)

2023年2月4日に逝去された我らが大阪外国語大学イスパニア語学科同期卒の

久保 義昭様との懐かしい同期会、読書会の模様を写真にて偲びます。

名古屋の料亭「よし川」

1990年代には毎年のように名古屋に同期仲間が集まった。久保氏は出張先のシンガポールから名古屋に直接帰国したこともあり、楽しい会であった。幹事の大村氏、藤永氏、竹山氏、そして2023年2月久保氏が鬼籍に入る。

 

2009年JR宝塚駅頭に集合→滝氏の幹事で「東洋紡の宝塚研修寮」で全国大会

東洋紡の宝塚研修寮の川べりでバーべキュウの宴会

画面左端が沖縄から参加の石原教授(沖縄国際大学)、浴衣着流しの久保氏以下全国より卒後最多の20名が集合。1泊の親睦会の故か残念ながら女性の参加なく男子会。

 

2012年六甲山サミット、楠氏が幹事の「関西大学研修寮」

同期生同士のカップル樋口氏(有三さん、浩子さん)ご夫妻の参加を得て紅一点の全国大会~沖縄からは平和学の石原教授も駆けつけ大盛会となる。

 

関西大学の六甲山荘の宴会風景ー1

 

関西大学の六甲山荘の宴会風景ー2

2007年に始まった同期仲間の月例「読書会」の忘年会

この年の忘年会は、久保氏が年間所得1億円超を祝す会。銀座の寿司「久兵衛」の個室を借切り読書会メンバーによる祝宴5人会

 

2013年全国から同期仲間の集合、豊橋駅集合~奥三河温泉郷へ(幹事大村氏の右に久保氏)

三河ー2温泉宿の宴会集合写真

 

三河ー3、金剛寺長篠城~棚田などの観光

 

関東の同期会、左端が故澤田氏(国土交通省入省の超エリート官僚)目黒のスペイン料亭に参集

 

関東イスパニア語会、久保氏の右、伊藤忠商事の松永氏、大阪外大元学長(イスパニア語名誉教授)の山田氏

 

2016年関東の同期会@新宿「住友倶楽部」(幹事織辺さん)女性2名、名古屋から神谷さん(旧姓箕浦さん)と樋口浩子さん(旧姓井上さん)の参加を得て盛会。

 

新宿の住友倶楽部ー2,宴会風景

 

2019年関東イスパニア語会の集合写真(コロナ禍発生前の最新の会)

 

2019年関東イスパニア語会で咲耶会(大阪外大同窓会)の東京支部長として挨拶された
久保氏、以降はコロナ疫病の影響下同会は中断中。

以上

編集者: 大阪外大イスパニア語学科同期を代表して(本城清)

<世田谷物語>ー(10)落第じゃない留年だ!!

 祝卒業50周年のつづき:

「湯の風同期会」の御案内「リマインダー」最終案内メール。

 

 東西参加者の集合場所である豊橋駅に着くと、刈谷市にお住いの神谷(旧姓箕浦)さんのお出迎え、というサプライズがあり。卒後はご主人ともども教職を全うされた由にてお互いに旧交を懐かしむ。

 と言っても何せ50年ぶりなので、名前と顔を確かめている間に乗り換えの列車が到着し時間切れ。次回での再会を期した。お土産まで頂き宿で参加者全員で頂く。

(後日談ながら、神谷(旧姓箕浦)さんとは2年後の新宿住友ビルの同期会にて再会を果す)

集合日時:2016年5月23日(月)13:20JR豊橋駅集合~24日(火)奥三河の貸切バス観光
宿泊場所:奥三河 湯谷温泉 「湯の風HAZU」〒441-1605 愛知県新城市能登瀬上谷平4-1
豊橋駅よりJR飯田線1時間10分→湯谷温泉駅http://www.hazu.co.jp/hazu/

観光:旅館のマイクロバスにて、鳳来寺山, 四谷の千枚田長篠城址、その他名所旧跡(昼食は各自負担)
会費(概算見積り):¥16,000~17,000(1泊2食・宴会費込み)+ ¥1,000~2,000(バス観光費)
湯谷温泉駅迄の交通費:大阪・東京より概算往復¥20,000(各自負担)

4年ぶりの全国大会になりますので参加各位との再会を楽しみにしております。

「東京発の新幹線ご案内」
こだま649号東京駅発10:56豊橋駅着13:16に乗りましょう。
本城は自由席1号車に並んで乗ります。品川駅、新横浜駅から乗られる方の席を確保しますのでお申し出下さい。

他の便や交通手段で豊橋駅へ向かわれる方もその旨お知らせ下さい。
飯田線豊橋発13:42発に乗り遅れた場合、次の14:42発岡谷行きで湯谷温泉駅15:48着を利用)

 <参加者: 敬称略>

関西:奥田、楠、鞠山、三好、田坂、下市(6名)

中部:大村(1名)

関東:樋口、木下、久保、西沢 、柴田季藏、深井、ヒロシ(7名)

総計:14名

 もし何らかの事情で不参加又はその可能性のある方は、折り返しその旨お知らせ下さい。

(3日前よりホテル予約のキャンセル料が発生いたしますのでご留意ください)

 以上
世話役:(関西地区)下市(中部地区)大村(関東地区)ヒロシ

 

 当日の奥三河 湯谷温泉 「湯の風HAZU」

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三河温泉の渓谷にて、西沢氏・三好氏

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三河温泉の渓谷にて、三好氏・ヒロシ

 

 ひと風呂浴びて部屋で幹事の大村氏が持ち込んだ缶ビールで乾杯の後~~

宴会場へ

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参加者全員集合の{男子同期会)

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 宴会後は幹事大村氏主催の「カラオケ組」とサロンの茶話会組に別れるも全員年齢相応の疲れもあり早々に就寝。

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ガイド付きの貸し切りバスにて奥三河の観光へ

鳳来寺山のハイキングコース

 

 

 

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 鳳来寺の塔に到着

 

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  鳳来寺の塔にて記念写真

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鳳来寺の石段を降り来る同輩の雄姿

 

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四谷の千枚田(という名前にはちょっと数が不足も景観)

棚田を見学~大村氏はせせらぎに見つけた「オタマジャクシ(蝌蚪)」をビニール袋に掬い取り奥様へのお土産に~~~はてさて奥様がお喜びなったというニュースはついぞ未だに聞けぬまま。

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大学卒50年は「高齢者」の 仲間入り。千枚田の登坂は休んで「ナンマイダ」

 観光バスは最終のスポット長篠城址へ

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歴史に名高い長篠の戦い。~夏草や強者どもの夢のあと~

城址近くのお土産屋さんで名物「五平餅」を頂く。八丁味噌の香りが印象的。

 ここから豊橋に戻り本会は「お開き」!!!!

 参加者のみなみなまだまだ元気だったが~~~幹事の大村氏はその2年後2018年に持病となった肺の病再発で逝去。 

 

 大村さん有難うございました。君の卒年が1年遅れたのは「落第じゃなく自ら選んだ留年」だった。我々同期生はそれを十分知っている。

 だからこそ、君の同期生に対する特別な思いに感じ入った同輩は、宴会の酒席で君に対する野次を飛ばし、「落第生!!」と敢えて叫んだのである。

 同期会への君の敷居を低くして同輩として付き合いたいという「友愛の叫び」であったことはその場の雰囲気で皆が共有できた。

 それに対して君は即座に「落第じゃない留年だ」と大声で返した。~~~これで万座は大爆笑の渦。

 

 その瞬間から50年の年月はすっ飛び一気に→学生時代の雰囲気に戻った。そんな素晴らしい場にいた幸運を皆が共有できたのであった。

 そして翌日は貸し切りバスで「修学旅行」の気分に浸った。

 だからだから~~もっと長生きして毎年、「同期会をやれ」と号令して欲しかった。

  君の志と同期への思いは必ず受け継がれる事と思う。いつまでも・・・

 

<世田谷物語>ー(8)卓球の神髄 Oh、What a miserable day!

   時節は6月末の中野区立体育館の卓球場。

 

 閉め切った卓球場に冷房はなく、古びた扇風機が天井に向かって廻っていた。

 蒸し暑い!! 此処に100人近くも集まるのか???

 ~~その熱気を想像してボクは早くも来たことを後悔し始めた。

 

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 ボクは第2試合に勝ててほっとしたが、チームとしては苦戦らしい。

 肩の力が抜けきれず、第3、4試合とボクのペアーが負けて、予選突破は微妙になり、同率決戦にもつれ込んだ。


 スコアー<2-4>で2点ダウン。セットオールで迎えた第3ゲーム。チームの予選通過がこのゲームの勝敗で決まる。ボクががサーブの番だ。

――ここはどうしても落とす訳には行かない――

 ボクの頭脳は襞が張詰めて硬直する。心拍数は上がるが脳波が働いてくれない。こんな時は使い慣れたサーブがよい。横回転のロングサーブを普段通り繰り出した積りだったが、掌に残った感触はちょっと強かった。ラケットに余分な力が入ったようだ。

――ちょっと大きいかな・・・でもラバースピンで何とかギリギリ台上に落ちてくれ――、と祈った。

 ボールのコースは思い通り相手の右脇腹へ・・・・、そしてわずかに「カシャッツ」というエッジ音を残して相手のウエア―を直撃した。ラケットにかすりもしないノータッチエース。確かにそう見えたのでボクは軽く左手を挙げた。

 

 エッジボールに対する詫びのマナーだ。その瞬間レシーブのミセスの眉が八の字に歪んだ。ショートサーブに備え前陣に構えていた彼女は、後退するだけでラケットに当てる体勢になかった。

前陣の構えを見破られ、「シマッタ」という表情だった。そこまで見届けたボクが次のサーブに移る前にスコアー板に目を向けてから、その場面は暗転した。得点が相手に入っていてスコアーが「2-5」になっていたからだ。

 

 3点ダウン。ええっという思いでボクがサーブの構えを外すのと、右脇から味方ペアーの女子がそれと気付いて「3-4、3-4」と審判に向かって、「エッジにしっかり入ったよ!」と叫ぶのが同時だった。

 ボクは卓球台の相手側エッジを指さすばかり。アッピールが声になって出て来ない。緊張した時の癖で喉の奥が詰まったのだ。こういう時に当事者が「入った、入った」と声高に騒ぎ立てると返って嘘っぽくなる。そんな知恵も秘かに働いて審判に目線を向けて無言の圧力をかけた。

 

 同点決勝戦だったから予選リーグの他の試合はない。館内で休息していた選手も異変を知り集まって来た。その中から相手女子への声援も飛んだ。

その応援に応えるかのように、彼女のゆがんだ眉が元に戻った。得点板がまだ<2-5>なのを確認して、口を尖らせて「出た、出たよ!」と叫び返す。

背の高い相手のペアー男子も後方から、「エッジに掛かってない!」と審判に指さして主張する。

 

 スコアー板を「3-4」に直すべきか逡巡していた審判は困った。よく見ていなかったので確信が持てない、という表情に見て取れた。

自分のミスジャジの可能性が高い。ところがあろうことか敵側に得点を入れてしまった。味方には悪いが判定を覆すと<アンフェア->になってしまう。その困惑顔を観て取った相手ペアーの男子が、

「こうなれば審判次第、どっちなんだ!」と突っ込みを入れ、さらに畳み掛けて「審判は見てなかったんじゃないか?」と恫喝した。

 

 ローカルな親善試合であるから審判と言っても敵味方チームが交互に担当する<記録係>である。審判としてはできれば当事者間で決めてくれ、というのが本音のところ。 

 ボールは台上でバウンドしていない。エッジをかすめた音は、一番近くにいる当事者が一番よく判る。通常の場合なら彼女は自主的に「入った」事を認めたであろう。

 だが団体戦の責任が掛かった試合では、興奮状態にあるので自分に有利に<聞こえる>。

審判は自分のミスジャッジのようだ、と口をゆがめながらスコアー板を元の<2-4>に戻した。ノースコアーのやり直しだ。

「今のがやり直し?」と不満そうなボクの女子ペアーに、審判は右手を上げて「ノースコアー」、とぽつりと言って目を伏せてしまった。

 それは<スマンスマン、実はしっかり見てなかったんだ>という表情だった。審判がチームメートだけにそれ以上は責められなかった。

 ボクはアッピールの間も冷静さを保っていた。そして2年前に経験したチーム成績最下位という屈辱を想い出していた。

 

 たかだか卓球教室が主催する<ローカルな親善試合>だ。男女の混成でダブルス試合をチーム単位で争う団体戦。チーム編成は当日の抽選。教室では練習相手となる顔見知りが敵味方に分かれる。

 2年前初めて参加した時、ヒロシは「試合が練習とは別物」なることを思い知った。予選に勝ち残れずに<敗退>すればそこでその日の試合は終る。

 楽しかるべき貴重な休日である。参加者の皆が、参加するからには「せめて予選は勝ち上がりたい」という一念で結束する。

 チームとしての連帯感がごく自然に生れる所以だ。敗退すれば、決勝戦の審判を務めるか、応援団に加わるしかない。「1日を卓球三昧で」という思惑が頓挫する。休日を無駄にした思いで悔しい。

 

 普段の教室ではお互いに相手を立て、高め合っている仲間でも、敵味方のチームに編成されると変わる。いや、普段の付き合いが猫を被った社交でしかないのだ。

 趣味の世界でも試合は人を瀬戸際に立たせ、魔者に変える。人間性を封じ込め闘争本能を炙り出す。普段は世間という殻に抑えられた本能が刺激され歯をむき出す。

 教室の練習試合の積りで参加したボクは蚊帳の外。明らかに後れを取っていた。自分がそんな耐性も経験もないビギナーなることを思い知らされる。

 悔しい思いを乗り越え、弱い己に打克つことが、スポーツとしての卓球の「神髄」なのであろう。

 

 あの時は初参加ゆえ余分に精神が高揚していた。結果として筋肉が硬直する事は避けられない。

 只々指示された順番に試合に出て懸命にボールを追っかけた。そんな姿を見れば初心者とすぐ分かるので、何処からも「審判」の依頼は来ない。

 初の挑戦はチームは最下位で予選敗退。ヒロシが出場した試合の成績も1勝5敗と惨めであった。

 

そんな2年前の想いとは無関係に試合は進行していた。

「思い切って行こう!!」という甲高い女子パートナーの掛け声に、ボクは我に返って相手を睨みつけた。

 惜しくも「ノースコアー」になったがボクは冷静に、やり直しも同じサーブと決めていた。横回転のロングは得意のサーブで得点率も高かった。ところが2度目は相手に見事に打ち返されリターンエースとなった。

 それでもヒロシは、「ドンマイドンマイ!」を連発するベテラン女子に助けられ気持ちを立直した。それから暫くして奇跡が起こったかのような連続得点が始まった。

――2年前の屈辱を晴らしたい――

 という一念で強気、強気に攻めまくった。ゾーンと言われる無我の境地になれたようだ。ペアリングの息もあって来てゲームに集中できた。

 すると練習時の「ボールに向かっていく」感触を取り戻して、必殺パンチも炸裂しだした。これを契機にボクのフォアー・スマッシュ、バックボレーが決まりだし、一息ついた時には「10-8」の2点アップと逆転していた。ここでボクのサーブ。

 

――息が上っていたが整えて1点取ればよい――

 チームメートの応援するボルテージは最高潮に達し、予選ゲームを終えた他チームも観戦に加わりだした。

 ボク達のゲームが予選の最終戦となったのだ。この結果により決勝リーグの組合せが決まる。中野区体育館に集まった参加選手全員が1つのゲームを注視した。

 応援に廻ったチーム仲間が「ゆっくりゆっくり」というのが聞こえた。その声にボクは逆に緊張した。これがマッチポイントでありチームの予選突破ポイントになると気付いたからだ。これで勝ちを意識した。

 

――どうしても勝ちたい――と固まるボクに女子ペアーが、

「ど真ん中に入れて!」と叫ぶのも聞こえた。

 ボクのバックサーブは構える相手のど真ん中に落ちた。クロス側に打ったはずが、

僅かに中央ラインアウトか・・・。

 とその瞬間に相手女子は、「アウト」と叫んだ。彼女は意表を突かれリターンできなかった。これも当事者間が一番よく判る微妙なジャッジだ。

 ボクにはオンラインに見えたが潔く相手のジャッジを認めた。まだそれでも「10-9」と1点アップ。あと1点で勝てると楽観していた。

 ところがこのサーブが明暗を分け、ジュースを繰り返した末に敗退した。これはただの敗戦ではなく、予選敗退を意味する。

 

 ボクは最後のゲームは自分なりに精一杯のプレーができた。

 だが5試合に出場して1勝4敗とチームの足を引っ張っていたので言訳がつかない。

予選敗退の責任を一身に感じた。

 3試合目にペアーを組んだ若者からは罵声を浴びせられた。第一セットを取られると一球ごとに横から注意された。

 

 試合中にチームメートに怒鳴られたのはショックだった。本チャンの彼が発する言葉は熾烈で、ボクをますます萎縮させた。1球ごとに彼が発する指示は、聞き慣れない仲間用語のように聞こえた。

「サーブしたら早くどけ、そこに居たら危ねえだろう」

「後ろでレシーブミスるなら前で構たらどうなんだ、えっ」

「チャンスボールも空振りすんかよ」

「返すボールに回転掛けろ!」

 最後には決まって、「テンポ合わねえなあ~~」と睨まれた。

 

 運動部の練習で、先輩が後輩に教え込むやり方を彷彿とさせた。

 先輩の「愛の鞭」という鍛え方だ。

 後輩はこれを「ありがとうございました」と頭を下げて感謝する場面である。

 だが試合中にいっぺんにあれこれ言われても、本チャンでないボクに出来るはずもなかった。

 その若者に悪気はなく真っ直ぐに純粋なだけだ。参加する以上は高齢者という年齢に甘えられない。スポーツの試合とは、学歴やキャリアーという鎧兜は何の価値もない。

「人格破壊」という言葉が思い浮んだが慰めにもならない。

 着の身着のまま、<裸でリングに上ったボクサー>なのである。

倒すか倒されるか、勝つか負けるかしかない。

 チームメートはそんな惨めな思いのボクに掛ける言葉もなかった。

 ボクはその場に居た堪れなくなって、そっと皆から離れ目線をずらした。

それをきっかけにチームは自然消滅しそれぞれ所属する地域クラブに戻った。

 どこのクラブにも所属していないボクには行く場所がない。

 群れから外れて一人ぼっちになった。

 Oh、What a miserable day! 思わず口の中でそう叫んだ。

 JR中野駅までの距離がやたら長く感じた。 

        ――  to   be  continued     ――