時節は6月末の中野区立体育館の卓球場。
閉め切った卓球場に冷房はなく、古びた扇風機が天井に向かって廻っていた。
蒸し暑い!! 此処に100人近くも集まるのか???
~~その熱気を想像してボクは早くも来たことを後悔し始めた。
ボクは第2試合に勝ててほっとしたが、チームとしては苦戦らしい。
肩の力が抜けきれず、第3、4試合とボクのペアーが負けて、予選突破は微妙になり、同率決戦にもつれ込んだ。
スコアー<2-4>で2点ダウン。セットオールで迎えた第3ゲーム。チームの予選通過がこのゲームの勝敗で決まる。ボクががサーブの番だ。
――ここはどうしても落とす訳には行かない――
ボクの頭脳は襞が張詰めて硬直する。心拍数は上がるが脳波が働いてくれない。こんな時は使い慣れたサーブがよい。横回転のロングサーブを普段通り繰り出した積りだったが、掌に残った感触はちょっと強かった。ラケットに余分な力が入ったようだ。
――ちょっと大きいかな・・・でもラバースピンで何とかギリギリ台上に落ちてくれ――、と祈った。
ボールのコースは思い通り相手の右脇腹へ・・・・、そしてわずかに「カシャッツ」というエッジ音を残して相手のウエア―を直撃した。ラケットにかすりもしないノータッチエース。確かにそう見えたのでボクは軽く左手を挙げた。
エッジボールに対する詫びのマナーだ。その瞬間レシーブのミセスの眉が八の字に歪んだ。ショートサーブに備え前陣に構えていた彼女は、後退するだけでラケットに当てる体勢になかった。
前陣の構えを見破られ、「シマッタ」という表情だった。そこまで見届けたボクが次のサーブに移る前にスコアー板に目を向けてから、その場面は暗転した。得点が相手に入っていてスコアーが「2-5」になっていたからだ。
3点ダウン。ええっという思いでボクがサーブの構えを外すのと、右脇から味方ペアーの女子がそれと気付いて「3-4、3-4」と審判に向かって、「エッジにしっかり入ったよ!」と叫ぶのが同時だった。
ボクは卓球台の相手側エッジを指さすばかり。アッピールが声になって出て来ない。緊張した時の癖で喉の奥が詰まったのだ。こういう時に当事者が「入った、入った」と声高に騒ぎ立てると返って嘘っぽくなる。そんな知恵も秘かに働いて審判に目線を向けて無言の圧力をかけた。
同点決勝戦だったから予選リーグの他の試合はない。館内で休息していた選手も異変を知り集まって来た。その中から相手女子への声援も飛んだ。
その応援に応えるかのように、彼女のゆがんだ眉が元に戻った。得点板がまだ<2-5>なのを確認して、口を尖らせて「出た、出たよ!」と叫び返す。
背の高い相手のペアー男子も後方から、「エッジに掛かってない!」と審判に指さして主張する。
スコアー板を「3-4」に直すべきか逡巡していた審判は困った。よく見ていなかったので確信が持てない、という表情に見て取れた。
自分のミスジャジの可能性が高い。ところがあろうことか敵側に得点を入れてしまった。味方には悪いが判定を覆すと<アンフェア->になってしまう。その困惑顔を観て取った相手ペアーの男子が、
「こうなれば審判次第、どっちなんだ!」と突っ込みを入れ、さらに畳み掛けて「審判は見てなかったんじゃないか?」と恫喝した。
ローカルな親善試合であるから審判と言っても敵味方チームが交互に担当する<記録係>である。審判としてはできれば当事者間で決めてくれ、というのが本音のところ。
ボールは台上でバウンドしていない。エッジをかすめた音は、一番近くにいる当事者が一番よく判る。通常の場合なら彼女は自主的に「入った」事を認めたであろう。
だが団体戦の責任が掛かった試合では、興奮状態にあるので自分に有利に<聞こえる>。
審判は自分のミスジャッジのようだ、と口をゆがめながらスコアー板を元の<2-4>に戻した。ノースコアーのやり直しだ。
「今のがやり直し?」と不満そうなボクの女子ペアーに、審判は右手を上げて「ノースコアー」、とぽつりと言って目を伏せてしまった。
それは<スマンスマン、実はしっかり見てなかったんだ>という表情だった。審判がチームメートだけにそれ以上は責められなかった。
ボクはアッピールの間も冷静さを保っていた。そして2年前に経験したチーム成績最下位という屈辱を想い出していた。
たかだか卓球教室が主催する<ローカルな親善試合>だ。男女の混成でダブルス試合をチーム単位で争う団体戦。チーム編成は当日の抽選。教室では練習相手となる顔見知りが敵味方に分かれる。
2年前初めて参加した時、ヒロシは「試合が練習とは別物」なることを思い知った。予選に勝ち残れずに<敗退>すればそこでその日の試合は終る。
楽しかるべき貴重な休日である。参加者の皆が、参加するからには「せめて予選は勝ち上がりたい」という一念で結束する。
チームとしての連帯感がごく自然に生れる所以だ。敗退すれば、決勝戦の審判を務めるか、応援団に加わるしかない。「1日を卓球三昧で」という思惑が頓挫する。休日を無駄にした思いで悔しい。
普段の教室ではお互いに相手を立て、高め合っている仲間でも、敵味方のチームに編成されると変わる。いや、普段の付き合いが猫を被った社交でしかないのだ。
趣味の世界でも試合は人を瀬戸際に立たせ、魔者に変える。人間性を封じ込め闘争本能を炙り出す。普段は世間という殻に抑えられた本能が刺激され歯をむき出す。
教室の練習試合の積りで参加したボクは蚊帳の外。明らかに後れを取っていた。自分がそんな耐性も経験もないビギナーなることを思い知らされる。
悔しい思いを乗り越え、弱い己に打克つことが、スポーツとしての卓球の「神髄」なのであろう。
あの時は初参加ゆえ余分に精神が高揚していた。結果として筋肉が硬直する事は避けられない。
只々指示された順番に試合に出て懸命にボールを追っかけた。そんな姿を見れば初心者とすぐ分かるので、何処からも「審判」の依頼は来ない。
初の挑戦はチームは最下位で予選敗退。ヒロシが出場した試合の成績も1勝5敗と惨めであった。
そんな2年前の想いとは無関係に試合は進行していた。
「思い切って行こう!!」という甲高い女子パートナーの掛け声に、ボクは我に返って相手を睨みつけた。
惜しくも「ノースコアー」になったがボクは冷静に、やり直しも同じサーブと決めていた。横回転のロングは得意のサーブで得点率も高かった。ところが2度目は相手に見事に打ち返されリターンエースとなった。
それでもヒロシは、「ドンマイドンマイ!」を連発するベテラン女子に助けられ気持ちを立直した。それから暫くして奇跡が起こったかのような連続得点が始まった。
――2年前の屈辱を晴らしたい――
という一念で強気、強気に攻めまくった。ゾーンと言われる無我の境地になれたようだ。ペアリングの息もあって来てゲームに集中できた。
すると練習時の「ボールに向かっていく」感触を取り戻して、必殺パンチも炸裂しだした。これを契機にボクのフォアー・スマッシュ、バックボレーが決まりだし、一息ついた時には「10-8」の2点アップと逆転していた。ここでボクのサーブ。
――息が上っていたが整えて1点取ればよい――
チームメートの応援するボルテージは最高潮に達し、予選ゲームを終えた他チームも観戦に加わりだした。
ボク達のゲームが予選の最終戦となったのだ。この結果により決勝リーグの組合せが決まる。中野区体育館に集まった参加選手全員が1つのゲームを注視した。
応援に廻ったチーム仲間が「ゆっくりゆっくり」というのが聞こえた。その声にボクは逆に緊張した。これがマッチポイントでありチームの予選突破ポイントになると気付いたからだ。これで勝ちを意識した。
――どうしても勝ちたい――と固まるボクに女子ペアーが、
「ど真ん中に入れて!」と叫ぶのも聞こえた。
ボクのバックサーブは構える相手のど真ん中に落ちた。クロス側に打ったはずが、
僅かに中央ラインアウトか・・・。
とその瞬間に相手女子は、「アウト」と叫んだ。彼女は意表を突かれリターンできなかった。これも当事者間が一番よく判る微妙なジャッジだ。
ボクにはオンラインに見えたが潔く相手のジャッジを認めた。まだそれでも「10-9」と1点アップ。あと1点で勝てると楽観していた。
ところがこのサーブが明暗を分け、ジュースを繰り返した末に敗退した。これはただの敗戦ではなく、予選敗退を意味する。
ボクは最後のゲームは自分なりに精一杯のプレーができた。
だが5試合に出場して1勝4敗とチームの足を引っ張っていたので言訳がつかない。
予選敗退の責任を一身に感じた。
3試合目にペアーを組んだ若者からは罵声を浴びせられた。第一セットを取られると一球ごとに横から注意された。
試合中にチームメートに怒鳴られたのはショックだった。本チャンの彼が発する言葉は熾烈で、ボクをますます萎縮させた。1球ごとに彼が発する指示は、聞き慣れない仲間用語のように聞こえた。
「サーブしたら早くどけ、そこに居たら危ねえだろう」
「後ろでレシーブミスるなら前で構たらどうなんだ、えっ」
「チャンスボールも空振りすんかよ」
「返すボールに回転掛けろ!」
最後には決まって、「テンポ合わねえなあ~~」と睨まれた。
運動部の練習で、先輩が後輩に教え込むやり方を彷彿とさせた。
先輩の「愛の鞭」という鍛え方だ。
後輩はこれを「ありがとうございました」と頭を下げて感謝する場面である。
だが試合中にいっぺんにあれこれ言われても、本チャンでないボクに出来るはずもなかった。
その若者に悪気はなく真っ直ぐに純粋なだけだ。参加する以上は高齢者という年齢に甘えられない。スポーツの試合とは、学歴やキャリアーという鎧兜は何の価値もない。
「人格破壊」という言葉が思い浮んだが慰めにもならない。
着の身着のまま、<裸でリングに上ったボクサー>なのである。
倒すか倒されるか、勝つか負けるかしかない。
チームメートはそんな惨めな思いのボクに掛ける言葉もなかった。
ボクはその場に居た堪れなくなって、そっと皆から離れ目線をずらした。
それをきっかけにチームは自然消滅しそれぞれ所属する地域クラブに戻った。
どこのクラブにも所属していないボクには行く場所がない。
群れから外れて一人ぼっちになった。
Oh、What a miserable day! 思わず口の中でそう叫んだ。
JR中野駅までの距離がやたら長く感じた。
―― to be continued ――